第4回 《 蕎麦と父 》 |
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『少量 箸ですくい
先だけつけて 一気にすする
そしてあんまり噛んじゃダメだ
そばは呑むものなんだ』
幼い頃 父にそう教えられた。
それが正しい食べ方なのかは知らないが
今日までずっとそうしてきた。
数日前 まだ張りのある声に
しつこく薦められていた近くの蕎麦屋。
“いま行かなかったら後悔する”
呼び集められた家族とともに
少し容態の安定した頃合を見計らい
行ってきたのは 昨日のこと。
『お蕎麦行ってくるからね』 母の言葉に
『あぁ 土産買ってきてくれ』
10本近く管のついた姿でそう言ったという。
“どれだけ蕎麦好きなのさ”
苦笑しながら 足早に指定の蕎麦屋に向かった。
深夜3時 “東京タワーって一晩中点灯してるんだ”
父の本棚から拝借した本を読みつつ 外を眺める。
ちょうど蕎麦の話だ。池波正太郎氏曰く
“のまぬくらいなら、蕎麦やへは入らぬ” だそう。
残念ながら あたしは下戸だ。
出汁巻き・蕎麦味噌・鴨焼・〆にせいろ
そんなかっこいい頼み方 ひとりではできず
蕎麦屋には呑める大人と行くにかぎる と思っている。
父は 独りで蕎麦屋に通っていた。
一緒に蕎麦屋に行けるほど
仲良くなれなかった娘にできること。
父の集めた食に関する本を
父の容態をうかがいながら 枕元で読むこと。
それがいまの精一杯なのだ。
*
五日後 父は他界した。
病気が発覚してから たったの三週間だった。
父は日本酒と料理の店をやっていた。
ぎりぎりまで自分の城である厨房に
立っていられたのは
なにより幸せなことだっただろう。
姉は蕎麦屋の箸袋を大真面目な顔で棺桶にいれた。
あたしは父親に唯一贈った刺繍入りの前掛けを
もったいなくて入れることができなかった。
四十九日を迎え 骨壺の消えたリビングで
前掛けのポッケを切り取った。
ブックカバーをつくってみる。
あの夜の本はまだ読みかけのままだ。
出来上がったカバーで試しに包んでみたら
まだ少し 胸が痛んだ。
父の本棚ではたくさんの本たちが
次の読み手を待っている。 |