HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN
 
お直しとか
 
横尾香央留
 
 第26回 《 とぶ・はやい・すくう 》

“あーこれがうわさの…”
風もないのに天井すれすれをすぃーすぃーと飛んでいる。
彼女はどかどかと音を立てながら必死に捕まえようと
ジャンプしたり 長い定規をつかって奮闘している。
“それはムリなんじゃないかな…”
ボクは他人事のようにそれを眺めている。

あとはボクがポンッと押すだけだった。
朱肉をつけながらとなりに寄り添う彼女を見ると
涙を浮かべ ほほえんでいる。
ぼくはそのほほえみに にっこりこたえながら
“こんなもんか…”と 人生の節目であるこの瞬間に
たいした感慨も無いことを知る。
朱肉からハンコをはなしたその時
春のなま暖かい風にのって窓からヤツは入ってきた。
そしてあっという間にボクの手からハンコをつまみとると
飛びながらそいつをまるのみした。おみごと…。

聞いたことがある。
ねずみ講に騙されそうになったおばあちゃんが
高額なエステのローンを組まされそうになったOLが
すんでのところでハンコを押さずにすんだという話を。
それがモモンガのおかげだったということを。

“ちょっとぉ!”
彼女があごで視線を促す窓の向こう側。
手を伸ばせば届きそうな街路樹の枝先に
モモンガはとまり こちらをじっとみつめている。
ボクは心の中でコクリと小さくうなずいた。
すると すぃーすぃー再び春の風にのって
モモンガは川のほうへと飛んでいった。

彼女は大きなため息をひとつつき
玄関でスニーカーの靴紐をきゅっと結ぶと
ぼくを一瞥し わざと大きな音を立てながら
アパートの階段を駆け下りた。

ボクは区役所に出すはずだった
目の前の用紙をまっぷたつに引き裂いて
くしゃっとポッケにつめると
財布と携帯を持ってこの部屋を出ていくことにした。
あ、そうだそうだ 通帳も。
パスポートもだな。パソコンもなきゃ仕事困るし。
充電機 充電機。じゃ 大きめのリュックに入れるか 。
なんかまだ他にも入るなー
歯ブラシとかいるかな タオルは必須だよね。
きのう買ったワインも入っちゃったりして。
ボクは出かける準備が苦手なのだ。
ついつい あれも必要かも これも必要かもと
なんでもかんでも詰め込んでしまう。

玄関で靴を履き あ、夜はまだ冷えるかも…
膝立ちで上着を取りに部屋の奥へと進んでいると
“どこいくの…”
背後から聞き慣れた声がする。
おそるおそる振り返るとそこには
ふくらはぎがパンッパンの彼女と
その手に握りつぶされたモモンガの亡骸。

 
 
2012-04-16-MON
 
 
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写真:ホンマタカシ
デザイン:中村至男