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志村洋子さん+志村昌司さん あたらしい道をつくる仕事。

atelier shimura(アトリエシムラ)の
代表である志村昌司さんと、
染織家の志村洋子さんにお話を聞きました。
atelier shimuraとは何なのか。
それより先につくられた芸術学校アルスシムラとは?
そして染織にかける「思い」について、
とても深い話が続きます。
洋子さんは昌司さんの母親、つまり
志村ふくみさんは昌司さんのおばあさんにあたります。
さらにその母親である
「小野豊(とよ)」さんのこともふくめ、
話は、家族の歴史にまでひろがっていきました。
なお、洋子さんについては、以前「ほぼ日」に掲載した
このプロフィールを、どうぞ。

志村洋子さん+志村昌司さん1

終わりではない。閉ざしてる場合ではない。

洋子
atelier shimuraは普通の会社を作るのとは違い、
世の中に今までないような仕組みを考えています。
伝統工芸的な人間国宝の個人だけでは
あり得なかったことを。

小野豊(とよ)、志村ふくみ、
そして私と続いてきたものは、
本来だったら、私で終わりなんでしょう。
けれども、この伝統工芸的な作家生活を、
どうやったら社会的な仕組みのなかに
無理なく入れることができるだろうか。
ブランドをつくるといっても普通のブランドではなく、
人の手の温もりがまだまだあるようなブランド作り、
そこがいちばん難しいところだと思うんです。
ほぼ日
昌司さんは、atelier shimuraの経営者として
今回、こうしてお仕事をなさっています。
たとえば洋子先生、ふくみ先生のあとを追って
「作家になろう」という心向きは、
今に至るまで、なかったんでしょうか。
昌司
ありませんでした。まったく、なかったですね。
ほぼ日
きっぱり「なかった」って言える
「なかった」なんですね。迷いなく。
昌司
そうですね。もしも小さい頃から
「おまえが跡継ぎだ」と言われていたなら、
迷いがあったのかもしれません。
でもそうではなかったんです。
ぼくは、自由にずっと、
全然違うことをやってきましたから。
洋子
私に対しても、覚悟であるとか、継げということは、
母からも、まったくありませんでした。
私も「面白いから、好きだから」で、
「じゃ、やってみようか」と。
ですから私も誰かに跡を継いでほしいとか、
そういうことではなかったんです。
ほぼ日
4年前に「アルスシムラ」という学校を
お作りになった時の気持ちや目的は
どういったことだったんでしょうか。
洋子
いくつかあるんですけど──、
ひとつはうちの祖父母が、
昭和学園という学園を
昭和の初めの時につくったことに始まります。
昌司
昭和学園は昭和2年に開校された
当時、滋賀県唯一の私立小学校でした。
日本の教育は、明治時代にヨーロッパ型の
前の黒板に向かってみんなで机並べて勉強をする
対面式で一斉授業のやり方が取り入れらました。
その前は寺子屋ですから違ったんですけれど、
そういう方式が取り入れられたところ、
一斉教授の詰め込み型という、
今と一緒の問題が明治時代に起こっていたんですね。

そういうことに対して、創造性や自主性を重んじる
教育をやりたいっていう一派が
大正ぐらいから出て来たんですよ。
これを大正新教育運動といいます。
東京では成城小学校、自由学園、文化学院などで
その先駆け的な教育をされていましたが、
私の曽祖母である小野豊の育った小野家は
そういう自由な教育を子どもたちに受けさせたいと、
東京の成城小学校から谷騰(たに・のぼる)先生を招き、
学校を作りました。
それが昭和学園なんです。
そして自分の子どもを全員入れてるんですね、
ふくみ以外は。
ふくみは養女で家を出ていますから‥‥。
つまり小野家が自分の子どものために作った学校です。
洋子
私の祖父、ふくみの父親は
大学を出て大阪で医院を開業したんです。
それが近江八幡で学園を開いた教育者、
ウィリアム・メレル・ヴォーリズさんという
宣教師に感動して、
大阪を畳んで近江八幡に行ったんです。
そして近江八幡の市内で開業して、
祖父はたいへんな働き者でしたから
けっこう患者さんが多かったんですけれど、
無医村でお医者さんがいない地域があり、
そっちのほうに行きましょうと、
祖母と一緒に行って‥‥。
そういう「背水の陣」が大好きな家系で、
いつもそうやって、そうやって、
安全なほうには進まないんですよね。
昭和の最初の頃はだんだん軍部の力が強くなって、
教育も軍部が力を入れる国策の教育になるでしょう。
祖母はそれがとても嫌だった。
子どもたちがだんだん大きくなってきたら、
芸術教育がしたいっていう思いだったんですね。
そして、近江八幡に西川家という名家があって、
子どもさんの教育に心を痛めておられました。
そこで、両家が一緒になって学校を作ったんです。
昌司
あらためてそのことを考えると、
どうしてうちがこんなに教育に関心があるのかが、
よくわかる気がするんです。
ぼくも母も、教育‥‥というか「伝える」ことに熱心で、
創造や感受性についての考えを持っています。
ぼくはここに入る以前、
大学進学のための私塾をやっていたんですが、
シムラの世界とは交わるところがないと思っていた自分が
学校を開くっていう時に、
経営面も含めて教育についてのノウハウがあり、
母は母で伝えたいことがあった。
それでこの仕事に入ったんです。
そして、母のあと、シムラの染織を
どう継承していくのかということを考えました。
けれどもぼくがいきなり作家になって
継ぐということではなく、
別のところで力になることができたわけです。

▲「アルスシムラ嵯峨校」のプレート。
ほかの工房からも近く、川や山も近い自然豊かなところにあります。
他に平安神宮に近い「アルスシムラ岡崎校」も。

▲嵯峨校の2階では機織りの実習中。
シムラの世界に惹かれ、全国から学びにやってきます。
その年代も10代から70代までさまざま。

そもそもこういう分野(工芸)は、
師匠とお弟子さんの世界で、例えばうちでは、
弟子は3年修行して出て行くっていうのが
決まりのようになっています。
つまり、人が溜まらないんですよ。
10年とか20年にわたる番頭さんみたいな人はいない。
常に作家はいるけれど、お弟子さんは新人なんです。
伝統を継承していきたいとなったとき、
シムラには人的なリソース、人的な蓄積がなかった。
そこで、もっと門戸を開放して、
学校という形式にしようと考えたんです。
広く募って、今、70人ぐらい生徒がいますが、
そのなかからさらに毎年、何人かの人が工房に入り、
atelier shimuraというブランドで
ものづくりを続けていこう、という考え方です。

▲葛西薫さんデザインのブランドロゴ。
「atelier shimura の創作物は、すべて命あるものからの賜物。
自然との永遠のつながりの象徴として、
強く太い葉脈をatelier shimuraのシンボルとした。」

ですから、atelier shimuraは
志村ふくみ、志村洋子という作家の工房ではなく、
志村の伝統を引き継いだ、新しいブランドです。
ふくみと洋子の作家としての
「都機(つき)工房」とは別に、
atelier shimuraのための
「みどり工房」があります。
atelier shimuraの中心になっているのは
みどり工房のみんなです。

▲みどり工房のみなさん。
工房のすぐ近くにはこんな景色が広がります。

今はかなり母がコミットして、
ディレクションやデザインをしてますけれど、
そのうちatelier shimuraの内部で
いろんなことができるようになるようにと考えています。
デザインにしても、作家が渡したものを
そのままつくるのではなく、
atelier shimuraのブランディングのなかで
デザインが決定されていくっていうような
プロセスにしたいと思っています。

人間国宝の作家が学校を作って、
ブランドを作るって、あんまりないと思うので、
どうなってくかまだわかりませんが、
やりたい人はすごく多いし、
求められていると感じています。
洋子
私たちがアルスシムラをつくったいちばんの理由であり
atelier shimuraを立ち上げよう、
門戸を開かないといけないなと思ったのは、
今まで社会生活でボロボロになった人が
うちに来て元気になっていく姿をたくさん見たからです。
それを長年感じ、確信がありました。

「癒される」とか、そういうことじゃないんです。
それは根本的な人間としての何かなんですよ。
言ってみたら「命に近づく」とかね、
そういう言葉はありますけれど、
地球に生まれて人として確信が持てたり、
生まれた意味がわかったり、
物質の世の中と自分の魂との接点が出てきたっていう、
そういう元気づけですね。

断絶が、そこにありますでしょう。
魂と物質の断絶っていうのが当然のごとくある。
それが本当は分かれていないという、
そういうことを思ってもいいし、
感じてもいいんだっていうことがうちで実証されて、
それでとっても元気になるんですよ。

もうひとつ、工芸の世界、
思想家・柳宗悦先生からの
伝統がうちには息づいていて、
そういう先生方との付き合いのなかで、
うちの染織が今日まで発展してきたわけです。
他の人たちのことはよくわからないんですけれども、
天才的な方が出られてもほとんど一代で、続かない、
続くものではないっていうふうに思っていたんです。
でも、やはり母ふくみと私のこのリレーが
期せずしてできたので、
そうしたらもう次の代になると、
閉ざしてる場合ではないですよね。

▲シムラにとってたいせつな「藍」。
ちょうど取材の時、畑で育てている藍が花を咲かせていました。

(つづきます)

2016-10-17-MON

Photo: Hiroyuki Oe, Chihaya Kaminokawa

TOBICHI

atelier shimura 誕生記念企画展
「あたらしい」と、あう。(仮)

11月3日から6日まで、南青山のTOBICHIにて
atelier shimura 誕生記念企画展を開催します。

ほぼ日ストア

atelier shimuraの
草木染のストールを販売します。

11月8日より「ほぼ日ストア」でも
atelier shimuraのストールを販売します。

TOBICHI + ifs未来研究所 + 世田谷美術館

atelier shimura
3つの催しのススメ。

TOBICHIのイベントとあわせて、
東京・北青山の「ifs未来研究所」で
atelier shimuraの着物の展示を、
「世田谷美術館」では
「志村ふくみ──母衣(ぼろ)への回帰」を開催しています。