志村洋子さん+志村昌司さん4
あなたの魂で織りなさい。
- ほぼ日
- アルスシムラは、
織りの基本知識を伝える説明プリントはありますが、
教科書やテキスト、染めのレシピ(配合表)もない、
メモもできればしてほしくないと聞きました。 - 昌司
- そうですね。
- ほぼ日
- 元々そういう教え方で、学校をつくる以前から、
お弟子さんにもそうだったんですか。 - 洋子
- そもそも工房では、テキストを作るなんて、
そんな面倒くさいこと、しませんよね。
1回1回気分も違うし、作りたいものも違うし、
同じことは2度となかったんです。

▲取材した日は休講日でしたが、自習日も設けられているそうです。
生徒さんは、染め具合や炊き出しの温度などを、
講師の方に相談しながら自習されていました。

▲ひと綛(かせ)ひと綛、丁寧に染めていきます。
- ほぼ日
- 学校はカリキュラムがあるんですよね。
- 昌司
- ざっくりあります。
予科は半年で週1回、
染織の基本的な技術と考え方を学んで、
裂(きれ)を織るところまで行きます。
こちらは東京から、働きながら通うかたもいます。
本科は週4回でさらに深く学び、
帯を織りあげ、着物を仮仕立てするところまで行きます。
1年コースと2年コースがあり、
2年になるとデザインや技法が複雑になります。
本科は仕事を辞めて来る人がほとんどです。
そして、テキストについては──、
学校ってやっぱり教科書があったほうが
いいんじゃないのかということは、
ずいぶん迷い、議論しました。
例えば「玉ねぎだったらこう染める」とか、
「茜だったらこう染める」とか、
「何リットルの水に何グラムの」とか、
普通だったらありそうですよね。
けれどもそれはアルスシムラとしては
やりたくないことなんですよ。
なぜなら、植物の染めって、理念としては
その植物が持っている本来の色を引き出すのが
人間の役目だと考えるからです。
志村ふくみは、現場で「はい、そこ」とか、
「はい、やめて」と指示をします。
そのタイミングは、その人間の感性です。
どのポイントがその植物にとっての
いちばん美しい色かっていうことを判断できる人だったら、
レシピやテキストは逆に邪魔です。
けれどもそのポイントがわからない人は、
マニュアルに従ってやっていくっていうことになりますが、
そもそもアルスシムラは自分の感性を養う場なんです。
習う場じゃなくて自分の感性を養う場。
レシピやテキストがあると、自分で考えなくなるんです。

▲染液をつくるため、クチナシを炊きだしているようす。
手ぬぐいのなかには、乾燥させたクチナシが入っています。
そのときの状態によって、匂いや、温度、色合いなど、すべてを感じながら
炊き出す時間を決めていくそうです。
- 洋子
- メモは禁止‥‥って言ってるわけじゃないんですよ。
でも「一応アカンのちがう?」って講師は思ってる。
ふくみや私は、即座に変わるっていうか、
変化変容がオッケーなので、
メモだって、必要な時には使います。
でも、気分的に「今、メモらんといて?」
みたいなことも、あるじゃないですか。
講演の最中でも何でも、
「聴いときなさい。
そんな書かんと。
今は真剣に聴く時よ?」
そんなふうに一言言うと、
「あ、ここではメモったらアカンのや」と、
こうなるわけですよ。ルールになってしまう。
そこがとっても難しいのね。
先生は自由だけど、
生徒のほうが禁止事項を作っちゃう。
いまの子って、みんなメモる。とにかくメモる。
学校でも多いし、いろんな作業も、
スマホで撮っていいですか、とかね。
「そうじゃなくて、今、魂で聴くのよ!」
って思うわけです。
べつにいいんですよ、書きたければ、
また次の違う時に書けばいいんだけど。
それは自分のなかに染み込むことですからね。
そういうことが全体で積み重なって、
「ふくみ先生はやっぱりメモるのはお嫌かな」とか、
そういうことになってしまってるところが
ちょっとありますね。 - 昌司
- 金科玉条になりやすいんですよね。
- 洋子
- なりやすい。ふくみぐらいになると、
なりやすいなと思います。 - ほぼ日
- 全部が格言化されちゃいますものね。
- 洋子
- そう、それが、かなわない。
- 昌司
- メモを取らなかったら、
忘れるところも出てきますよね。
でもいいんです。
忘れるのは、多分、その人にとって
本質的なことじゃないから、
忘れていいんだって言うんです。
今日も朝、アルスシムラで話してきたことですけど、
結局「権威」ってものができるじゃないですか。
ふくみもアヴァンギャルドで自由にやってきて、
本人は自由なんですけど、
いろんな賞を貰ったりしてくると、
もう、1人の権威者になってしまってます。
ふくみのようになりたいっていう人、
けっこう多いと思うんですけど、それは逆説的なんですよ。
かと言って、ふくみの言うことに忠実にしていれば
ふくみになれるかって、
そうじゃなくて、そういう権威的なものから自由になって、
精神的に自由になって、自由に自分の自己表現をしていく、
それこそが芸術家の真骨頂なわけですよね。
権威に従って盲従していくんじゃなくて、
自由になる精神がないと、
自分の表現ってできないわけですよね。
今日はそんな「自由」って話やったんですけど、
さあ、習おうかって人に、
そこから離れて自由にならなきゃいけないっていうのは
逆説的かもしれませんね。
‥‥難しいですよね。
習ってるんだけど、自由にならないといけないっていう。
学校はそういう場になり得るのか。 - ほぼ日
- 「芸術は教えられるものなのか」っていう命題は
常につきまといますね。

▲工房の藍甕で染められた絹糸。そのときそのときで、出てくる色はさまざま。
- 洋子
- その自由の問題でね、
民主主義の基本的人材としての、
人間として与えられた自由と、
精神の自由、その2つ自由があって、
それはなかなか混乱しがちなんです。
けれども、やはりものを作る人間っていうのは、
ほんとうに芯から精神の自由っていうか、
どんなに狭められた材料のなかでも
自由闊達な創造ができるっていう、
その自由っていうのは、天にも昇るし、地にもくだる。
その自由なことと、基本的人権の自由とは
ちょっと違いますね。
基本的な人権の自由があったうえで、
そういう精神の自由っていうのは
もちろんあるわけですけれども、
そこのところの混同が今起こっていて。
学校なので教えてもらって当然で、
先生の創造的なものの秘密を
私に教えてよって言うんです、究極的には。
でもゴッホに、ひまわりのこの描き方教えてって言っても、
教えられるもんじゃないでしょう。
染織のこのぼかしの仕方、
色の巧みさを教えてほしいって言われても、
それは精神論であったりとか、
どんな本読みなさいって言う以外ないんですよ。
そこを教えてくれって言われるんです、今。 - ほぼ日
- たしかに逆説的です。
- 洋子
- 何しに来たの?
それやったら、美術学校行ったらいいんです。
でも、ここの教え方はそうではなくて、
たとえば、トルストイ読みなさいとか、
ロシア文学読んどきなさいとか、
そして何かを汲み取って、
人生とは何かっていうものを深く考えて、
あなたの魂で織りなさい、としか言いようがない。
それをわかってもらうのがとても大変。 - 昌司
- 若松英輔さんという
『三田文学』の編集長をしていた
批評家の先生に、最近アルスシムラで
講演会をしていただいたんです。
若松さんは本を読む、
あるいは本を書くことが専門なんですけど、
「なぜ本を読むのか」
っていうことをいつもおっしゃっていて。
今のぼくたちの本の読み方って
「情報を得る」っていう側面があるじゃないですか。
「仕入れとこう」みたいな部分。
でもそれは本当に本を読むってことじゃないんですよね。
本を読むっていうのは、深いところで
本の書き手と出会うこと。
本当に深い本っていうのは、そんなすぐに読めなくて‥‥。
例えば、志村ふくみの『一色一生』は
ほぼ還暦のときに書いた本なんですよ。
それまでの60年間、エッセイはそんなに書いてなくて、
あのときから急にいろいろ書き出したんです。
つまり、長い沈黙があって、出た本があれだった。
それまではわりとずっと
制作ばっかりやってたと思うんですよね。
そういう「沈黙の60年間があって出てきた本」
っていうことを思ったときに、
「一晩で読みました」とか、
「3日で読みました」っていうことは
ちょっと違うんじゃないかってことですよね。

1982年に刊行された「一色一生」。志村ふくみ先生が
様々な人や色との出会いを語ったエッセイ集。
- そういう、こちらも自分の深いところに
入ってくるような本の読み方、
本を読むことによって自分自身の考え方とか
人格が変化していくとか、
そういうことが本を読むことなんだ、
っておっしゃってて。
同じようなことが染織にも多分言えて、
植物と向かい合って染織するっていうのは、
うちだったら作業的になったらダメだってことですね。
ドンドコドンドコ染めて、
なんか物を作り出すっていうんじゃなくて、
ひとつひとつやっぱり気持ちが動いていく、
感覚が動いていくっていうことがないと、
人間でも工業的になっちゃいますよね。
心が入らないと。
そのへんのことが大事なんじゃないかな。

▲工房からすぐ近くにある畑では、蓼藍(たであい)のほかに、
レモンやみかん、無花果なども育てられていました。
(つづきます)
2016-10-20-THU