さて、その後の母ですが、
ワガママ母さんっぷりは、相変わらず健在。
ますます、おもしろいことになってきました。
野菜ギライは昔からのことですが、
それ以外にも、きらいなものが
日々どんどん増え続けています。
肉もダメなら、魚もプイッ、
といったありさまで、
まるで『イヤイヤ期』の赤ちゃんみたいです。
もっとも大手術のあとの病み上がりですし、
また、これはあとから先生に伺ったことですが、
母の病状は、わたしが思っていたよりも、
ずっと重篤だったということで、
しばらくの間、食べ物を選り好みしたくなるのも
致し方ないことかもしれません。
ただ、こちらとしては、
つくっても、つくっても、
のれんに腕押し感満載で、
なんだかわたしも、
いささか心がすり減ってきました。
というわけで、新作戦。
『いったん休む』です。
…これが『作戦』なのか、といわれそうですが、
母にごはんをつくるのは、長期的なプロジェクト。
ここで疲れ果ててしまっては、先が続きません。
とりあえずデリバリーもしばらくお休みに、
と思っていたところで、
なんと意外なところから頼もしい助っ人が登場!
長女が、わたしの代わりとなって、
母を訪ねてくれるようになったのです。
実は長女は、親のわたしから見ても、
実におっとりと穏やかな性格で、
これは多分、夫に似たのだろうと思うのですが、
なにかカチンとくることがあっても、
それを口に出さずに、笑って受け流したり、
ぐっと飲み込めるタイプ。
雨戸も立てっぱなしの、寝たり起きたりの繰り返しで、
昼夜逆転気味の母とも上手につき合って、
「おばあちゃんたら、おもしろすぎて笑っちゃう」
なんて言いながら、イヤな顔もせず足を運んでくれます。
母も、わたしといるときと違って、
好きなときに自由にテレビを見たり、
おふろに入ったりしているようで、なにより。
のびのびが過ぎて、
「あのね、おばあちゃんね、
よくあんなおかあさんと一緒に
暮らしていられるわねぇ、って言ってたよ~」
という、娘のご注進というおまけつきではありますけれど。
その一方で、わたしも時間と距離をおくことで、
母のしんどさに、少し思いが至るようになりました。
退院して、1~2カ月は家族が交替で
泊まり込んでいましたが、
それ以降は基本的にひとり暮らしに戻りましたし、
ここ最近になって、
ようやく近所を散歩ができるようになるまでには、
ずいぶん時間がかかったことなどを考え合わせると、
やはり80歳代も半ば近くなって
大きな手術をするということは、前後を含めて
本当に、体にも心にも負担がかかっていたのでしょう。
また、ひとの心配をよそに、
好き勝手ばっかり言って、と思っていましたが、
今思い起こせば、手術の2カ月後に孫の結婚式と、
二人目のひ孫が生まれるという慶事が控えていたことで、
それを励みと楽しみにして、
母は母なりに、一所懸命リハビリをがんばっていたのでした。
母のそばにいながら、わたしはなにを見ていたのでしょう。
改めて胸に手を当ててみると、
「母のために」と言いながら
母が自分の思い通りにならないことに
腹を立てていたことや、
しかも心のどこかで
「こんなに忙しい中、わざわざ時間を割いて、
ごはんをつくって、届けてあげているのに」
という恩着せがましい気持ちが
ひそんでいたことを認めざるを得ませんでした。
なにも母は自分から「ごはんをつくってちょうだい」と
いっていたわけではないのです。
そしてたぶん、わたしのそんな気持ちを、
母は敏感に感じ取って、
肩身の狭い思いをしたり、理不尽さを感じたりして、
ワガママのひとつやふたつくらい、
言ってみたかったのだろうとも思います。
そういえば、子供のころ、
うまく隠しおおせたと思っていたことも、
母は全部お見通しだったのでした。
まさに『ママはなんでも知っている』のです。
しばし反省。
そんなこんなで、
ひとまずお正月は気を取り直して、おせちをつくり、
久々に家族そろって、実家を訪ねました。
母や親戚と一緒に皆でお祝い。
母も機嫌良く、おいしそうに食べてくれました。
これまで傲慢な気持ちが潜んでいたことは否めませんが、
母にいつまでも元気で、長生きして欲しい、
という気持ちもまた、決して偽りではありません。
ここは初心に返って、いざ。
体によいからとか、ためになるからという理由で、
食べたくないものを無理に押しつけるのではなく、
『心の栄養』もプラスして。
今さらですが、よく考えたら、
わたしも食べるものは、
気分次第で自由にしていたいタイプで、
すでに口が飽きていても、
早く食べきらなくてはとせかされる常備菜は
気持ちの負担になることが多く、
いろんな点で、よくも悪くも、
母と娘は似たもの同士だったのでした。
さぁ、張り切ってまいりましょう!
(次回に続きます)