- 糸井
- 神戸の震災のときはそこにいたんですか?
- 浅生
- 揺れた時はいなかったんですよ。
- 糸井
- あ、そうですか。
- 浅生
- 当時ぼくは、座間のほうのある大きな工場みたいなところで働いてて。そこの社員食堂のテレビで燃えてる街を見てたんです。
そしたら、死者が2千人、3千人になるたびに、周りで盛り上がるんですよ。ゲーム観てるみたいな感じで。
ちょっと耐えられなくて、すぐに神戸に戻って、そこから水運んだり、避難所の手伝いしたりっていうのをしばらくずっとやってました。
- 糸井
- お母さんも、その現場にはいなかったの?
- 浅生
- うちは山のほうなので、家自体は大丈夫だったんですけど、祖父母の家が潰れちゃったり、友達もずいぶん下敷きになったり。
- 糸井
- もしあれが実家のある神戸じゃなかったら、
また違ってたかしらね。
- 浅生
- 全然違うと思います。もしかしたら、テレビを見て盛り上がっている側にいたかもしれない。むしろ言っただろうなとも思う。
- 糸井
- それは、すごく重要なポイントですね。
自分が批難してる側にいないっていう自信のある人ではないっていうのは、大事ですよね。
- 浅生
- ぼくいつも、自分が悪い人間だっていう恐れがあって。
人は誰でもいいところと悪いところがあるんですけど、
自分の中の悪い部分が、ふっと頭をもたげることに対する恐怖心があるんですよ。「ぼくはあっち側にいるかもしれない」っていうのは、いつも意識はしてますね。
- 糸井
- そのとき、その場によって、どっちの自分が出るかっていうのは、そんなに簡単にわかるもんじゃないですよね。
- 浅生
- わからないです。
- 糸井
- 「どっちでありたいか」っていうのを普段から思ってるっていうことまでが、ギリギリですよね。
- 浅生
- だから、よくマッチョな人が「何かあったら俺が身体を張ってお前たちを守ってみせるぜ」って言うけど、いざその場になったらその人が最初に逃げることだって十分考えられるし、多分それが人間なので。「もしかしたらぼくはみんなを捨てて逃げるかもしれない」って不安も持って生きてるほうが、いざというときに踏みとどまれるような気はするんですよ。
- 糸井
- 「このときも大丈夫だったから、こっちを選べたな」っていうことは、足し算ができるような気がするんだけど、それ一色には染まらないですよね。
- 浅生
- 染まらないです。
(つづきます)