大学院進学が叶わず、就職活動もうまくいかず、
あれよあれよと留年の渦に取り込まれてしまった
ぼくは、人生で1番と言っていいほど落ち込んでいた。
どちらも準備不足だと言われてしまえばそれまでなのだが、
進もうとする度に「No」を突きつけられるのは、正直つらい。
能天気にご飯屋さんめぐりをして、「常連さん」になって
よろこんでいた頃がたまらなく懐かしかった。
こういう時に限ってSNSをくまなくチェックしてしまうの
だけど、その度にいつも自分勝手に凹んでいた。
ああ、同期や後輩は大学院や社会でキラキラと活躍している
のに、ぼくは将来の見通しもなく、行動を起こすこともなく、
月5万円の部屋で1人、ネットを見てるばかりだ…。
と、誰にも会いたくなくて、1人うじうじしていた。
生まれてはじめて引きこもるという経験をしたのだけど、
それでもちゃんと腹は減ってくれた。
そしてそんな時は自然と、チャーリーに足が向かってしまう。
いつも通りの感じでおばちゃんは出迎えてくれた。
席に着くとお水を持ってきて「いつものでいいですか?」と
ぼくに聞き、おなじみの料理を運んできてくれる。
時々、唐揚げを1個おまけしてくれる。
割引券を1枚多くくれる。
嫌いな食べ物の配慮をしてくれる。
なんてことないかもしれないけど、
落ち込んでいたからこそ、おばちゃんのちょっとした
やさしさが、じんわりと、身に沁みた。
と、この時期を境に、ぼくがチャーリーに行くペースは
どんどん上がっていく。多い時で、週6回。昼と夜、
両方チャーリーに行くこともあった。そして、ぼくにとって
チャーリーは避難場所のような、安息地のような、
そんな存在なんだなと思うようになった。
おばちゃんが唐揚げをおまけしてくれたり、
10%OFF券を1枚多くくれたり、
嫌いな食べ物を覚えてくれることは、
とても、とてもうれしい。
だけどそれ以上にうれしかったのは、店のドアを
開けると、どんなときも「いらっしゃい」と笑顔で
おばちゃんが出迎えてくれることだった。
面接に落ちた日だって、
周囲と自分を比べて自己嫌悪に陥ってしまう日だって、
誰にも会いたくないはずなのに1人に耐えられない日だって、
どんな日だって、チャーリーのおばちゃんは変わらず
ぼくを出迎えてくれた。
そこに、おばちゃんがいること。
それだけで、もう、なんだか大げさかもしれないけど、
救われた気がしてしまうのです。
それはまるで小さい頃、友だちからいじわるをされて
泣きべそをかきながら家に帰った時、母に出迎えて
もらったときの、悲しいけれどどこかうれしいような、
そんな感覚だった。
ぼくにとってチャーリーのおばちゃんは、
第二の母のような存在になっていた。
お店の人が「特別になにかをしてくれる」ことが
「常連さん」のよろこびだと思っていたけれど、
そういうことよりも、「そこにいてくれる」という
ことの方が何倍もうれしい。
「キャッチボールで相手からボールが返ってくることより
も、そもそもボールを受け止めてくれる存在がいることを
ありがたいと思えよ」と誰かが言っていたけれど、
本当にそうだなぁと、今となっては納得できる。
どこかの街角で、今日も常連さんとしてスナックに入り浸り、
酔っぱらいながら「ママ~、おかわり~」なんて言っている
おじさんも、ぼくと同じ気持ちなのかもしれない。
家族関係でもなく、友人関係でもなく、恋人関係でもなく、
先輩後輩関係でもない関係性。
現実の人間関係からちょっとずれているからこそ、
避難場所に、安息地に、なりうるのかもしれない。
「常連さん」はオトナになれる魔法の言葉なんかじゃなくて、
子どもになれる言葉なんだ。
もし5歳の自分と会う機会があれば、そう教えてあげよう。
ま、なんのことだかさっぱりわからないだろうけど。