〝想い〟を形にするジュエリー職人の仕事
担当・阿部光平
第4回 下町の職人、世界一を目指してパリへ渡る
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日中は大学に通って、夜はジュエリー工房で仕事をする
というハードな生活を送っていて、
結局、大学は4年間で卒業できたんですか?
- 臼澤
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4年で全部終わって、卒論も書いて、
上級公務員にも受かったんですよ。
当時の建設省、今の国土交通省ですね。
本当に役人になろうと思ってたので。
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本当に公務員への道を進んでいたんですか!
だけど、結局は職人の道を選んだわけですよね?
- 臼澤
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11月くらいに就職が決まってたんですけど、
親方が「卒業するまでに、何かひとつ作らせてやるよ」
って言ってくれたんですよ。
いわば、卒業制作ですね。
「長谷川製作所の名前で伝票切っていいから、
材料買ってこい」って。
その課題が、冠とイヤリングとネックレスだったんです。
彼はそういう仕事をしてましたから。
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そうか、皇室の仕事をされたんですもんね。
- 臼澤
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4年間、親方の仕事を見てきたから、
一通りサマにはなるくらいにはできてたんですけど、
仕事に関してはすごく厳しくて。
お客さんの仕事はやらせてもらえなかったんです。
だから、自分の作品を作るのは初めてだったんです。
たぶん、僕がどこまでできるかを見たかったんでしょうね。
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それまで作らせてもらえなかったというのは、
親方さんが自分とお客さんとの関係性を
大事にしていたからなんですか?
- 臼澤
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今、思えば、
僕がやりたくて、やりたくてしょうがなくなるまで
待ってたんでしょうね。
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じゃあ、口では直接言わないけど、
臼澤さんに後を継いで欲しかったんですね。
- 臼澤
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もう、お互い4年間も一緒にいると、性格も読めますよ。
だって、自分の親よりか血が濃いと思いますもん。
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血縁を超えた師弟関係かぁ。
- 臼澤
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その時に作ったものを、僕が知らないうちに
親方が宝飾の大会に出品してたんです。
その作品が、グランプリをいただいて。
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デビュー作がいきなりグランプリですか!
- 臼澤
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そう。22歳の時に、最年少受賞で。
それで、親方から
「実質、日本一だけど、どうする?」って言われて。
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どうするというのは、進路のことを?
- 臼澤
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そうです。
「今よ、俺の机の横にお前の机を並べて仕事やったら、
年収1000万円は軽く超えるぞ」って言うんですよ。
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はいはい。
- 臼澤
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もう、二つ返事で「やりまーす!」
って言いましたね(笑)。
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夢の公務員を蹴って(笑)。
- 臼澤
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ええ。でも、結局1ヶ月だけですよ。
大学を卒業して、親方の横に机を並べて仕事したのは。
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どうしてですか?
- 臼澤
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「世界一、見たくねえか?」って言われたんです。
もう、そこまで見据えてたんですよね、あの人は。
「あのよ、長谷川の腕が世界でどれくらいのレベルなのか
確かめてこいよ。
お前だけだからよ、唯一俺のことを見てるのは」って。
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はぁー。
- 臼澤
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「せっかく賞をもらったんだから、日本で頑張りなよ」
って言う人もいたんですけど、正直なことを言うと、
ジュエリーの文化がない国のグランプリを
もらったくらいで、
「日本一だから偉いでしょ」って胸張って、
それを看板にして仕事するほど、
志は低くなかったんです。
賞でメシ食ってる人にロクな職人はいないと思うし。
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その時にはすでに、
ジュエリーの道を極めようという志があったんですね。
- 臼澤
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僕の中で、親方は名人だと思ってましたけど、
彼の技術が世界に通用するのかしないのか、
本当に名人っていわれるほど名人なのかを
確かめたいという気持ちはありました。
あの人は仕事を選ばなかったし、
生涯一職人でいいって言ってた人だから、
生活も地味だったけど、
あれほど、綺麗に石を留める職人は見たことがないし、
あんなに表情のある彫りをできる人はいないと思います。
本当に道具を巧みに使って、
美しいものを作ってましたから。
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「道具を巧みに使って、美しいものを作る」かぁ。
- 臼澤
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あのイメージって鮮明なんですよね。
彼が作った物って、未だに作品として残ってるし、
今見ても、ため息が出るくらい素晴らしいんですよ。
お金があったりとか、派手な生活をしなくてもいいから、
職人として後世にまで残る物を作れたら、
こんなに幸せなことはないんだろうなって、
年齢を重ねていくごとに思いますね。
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親方さんは、今でも
あらゆる面で目標になっているんですね。
- 臼澤
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僕が大学を出た頃は、
世界一の宝飾ブランドといえばC社ですから、
親方に「行くなら、話通すぞ」って言われて、
パリ本店の工房に入ったんです。
まだ飛行機が高かった時代だから、
片道40万円くらいかかったかな。
渡航費用も親方が出してくれたんですけど、
行く時に「困ったら、コレを売れ」って、
首にプラチナのネックレスをかけてくれたんです。
「200グラムあるけど、これ売っても足りねぇから、
あとは自分の手で帰ってこいよ」って言われて。
自分の技術で稼いでこいっていう、
あの人なりの激励だったんだと思うんですけど。
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それは忘れられない餞別ですね。
実際に海外へ行ってみての手応えはいかがでしたか?
- 臼澤
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行った時点では、その他大勢の職人と一緒ですよ。
ただ、レベルが高いとは思わなかったですね。
むしろ、みんな怠け者だなと思いましたね。
ヨーロッパの人って、いっつも休んでるんだなって。
ある時、商品を2日で作って、すげー怒られたんです。
「お前が、それやっちゃうと、
俺らもそれをやらなきゃいけなくなるから」って。
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できるけど、敢えてやらないってことですか?
- 臼澤
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敢えて難しくしてるんじゃないですかね。
自分たちの技術を安売りしないために。
業界批判みたいになっちゃうけど、
職人という立場の人間だったら、
自分の技術や仕事に嘘をついちゃダメですよね。
そういうことは感じました。
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じゃあ、親方さんの技術は、
パリでも十分に通用したわけですね。
- 臼澤
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3年目でチーフクラフトマンを任されて、
その後、最高位のトップマイスターに認定された時点で、
通用したと思いましたね。
師匠ということを抜きにしても、
あの人が一番上手いっすよ。
そこは自信ありますね。
彼より上手い職人は見たことがないです。
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技術的には日本の親方の方が上手かった
という状況だったとすれば、
パリで学んだことって何だったのでしょうか?
- 臼澤
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ジュエリーとかアパレルとかは、
そもそも向こうから来たものですから。
だから、ジュエリーの歴史とか文化、
それからジュエリーに対する考え方とかは、
すごく勉強になりましたね。
あとは、絵画とか家具とか、
建築物を見なきゃいけないと思って。
歴史や文化の違いを知った上で、
「だから、こういうものが出来上がるんだ」ってところに
結びつけて考える過程なんかも、
ジュエリーを作る上での肥やしになってると思います。
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ジュエリーを作る上で、
絵画や建物を見る必要性を感じたということですか?
- 臼澤
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そうですね。
自分には、圧倒的に引き出しがないなと思って。
ジュエリーって趣向品だから、
いろんな趣向品を見ないと、
本来の意味合いがわからないんじゃないかと思ったんです。
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なるほど。
ジュエリーの存在意義みたいなところを掘り下げて、
趣向品としての在り方を考えていくという。
- 臼澤
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もっと上手くなりたいんだったら、
そこを見ないとダメだろうなって。
とにかく、それしか考えてなかったですね。
「上手くなるためには、どうしたらいいんだろう」って。
あの頃、パリの、しかもジュエリーという業界で
アジア人が認められるためには、
技術を磨くしかなかったですから。
パリの後も、フィレンツェやバルセロナの工房で、
いろんな職人さんの仕事を見させてもらいましたけど、
上手いとされる人は、
同じくらい高い技術を持ってるんです。
そこから先は、自分の引き出しがあって、
その引き出しに対してプライドをもって仕事をしてるとか、
すごく真面目に仕事をしてるとか、
仕事に対して嘘をつかないとか、
そういうことがモノをいうんですよ。