そもそもドキンちゃんにはまず、
考え直したほうがいい点がある。
それは、彼女の「住まい」。
射止めたいと考える異性が居ながら、
ばいきんまんの城でばいきんまんと
生活を共にしているところだ。
これはよしたほうがいい。本来、三方悪しだ。
もしも私が彼女の友人であったなら、
そっと肩に手を置いて注意してあげたにちがいない。
「そういうの、よくないと思う」。
だけど、よく考えると、
これはなかなか「使える」条件でもある。
ばいきんまんの恋を発展させる方法は、
いたってシンプルで、
彼女をバイキン城からつまみ出せばいいのだと思う。
いつも彼の手ばかり借りているドキンちゃんが
困り果ててしまうことは間違いないし、
「彼がいなくてはならない自分」を
嫌というほど痛感することになるはずだからだ。
それは何も「道具」的な側面だけじゃない。
私はその昔、物書きに集中したくて
静かな暮らしに憧れていたのに、
実家を離れ上京してみると、
母のスリッパの音が聞こえなくなったことが、
たまらなくさみしかった。
「憧れ」と「日常のぬくもり」は案外簡単に逆転する。
当たり前ながら、
その日常に慣れていれば慣れているほど、
離れたときの「さみしさ」は大きい。
慣れっこでも時に疎ましくても
「いつもそばにある」は強いのだ。
離れれば、そのぬくもりに憧れる。
仮に困った果てに、彼女がしょくぱんまんを
頼ってしまったとしても、まだ慌てることはない。
人は、「習慣」として物事を習得するには
平均66日は継続しなければいけないという。
それがバイキンとパンにも通用する見立てかは
さておき、「日常になる」ということは
それだけ容易ではない。
「憧れ」が「日常のぬくもり」へと形を変えるのも、
案外むずかしいのだ。
それに「憧れ」と向き合うと、途端に
「こんなものだったのか」という気持ちが
ひょっこりと顔を出すことは意外に多い。
ドキンちゃんは、「しょくぱんまん様」を
どのくらい知っているだろうか。
恋を成就すれば必ずやってくる、
彼の「バイキン城を出てくれないか」という
リクエストにはどう答えるつもりでいるのだろう。
(つづきます)