- ーー
- そもそも薬玉ってどういうものなんでしょうか。
- 関根
-
平安時代、菖蒲の節句というのは、
今のような男の子の節句ではなくて、
薬玉を肘にかけたり、御簾にかけたりして
邪気を払うという行事だったんです。
五月五日っていうのは今でいうと、
六月の梅雨の時期ですね。
一番ジメジメして、
特に京都のような都会は疫病が発生して
災厄が多い時期なんです。
五月は悪月って中国の歳時記にも
書かれているくらいなので、
そういう邪気を払う行事は
すごく大切にされてたんですね。
薬玉の中央にお香を入れた錦の袋を添えて御簾に飾る
というのが本来の形です。
- ーー
- どうしてその薬玉を結びで作ろうと思われたんでしょうか。
- 関根
-
薬玉のこういう絵があるんです。
これは額田巖先生という方が書いた『日本の結び』
という本の裏表紙なんですけど。
実はこの方、今でいうNECの社員なんですよ。
- ーー
- え、そうなんですか。
(額田巖氏著『日本の結び』講談社)
- 関根
-
はい。入社当時、電線の配線、接続のお仕事を
されていたんですが、「束線」という電線の束を見て、
それがとても印象に残ったそうです。
それをきっかけに結びについて興味を持って、
結局50年以上結びについて研究された方です。
で、この絵の元になるもののコピーを
西村先生が持ってらしたんですけど、
とにかく綺麗だなと思ったんです。
それで、先生にこれを結びでやりたいって
お願いしたんですが、
自分ではどうしていいか分からなかったんですね。
そしたら奇遇にも先生が、
「いや、実はこれを結んで欲しいという方がいて
依頼されたんやけど、どうしても時間がなくて
まだここまでしかできてへんねん」
と言われたんです。
それで先生の指導を受けながら
薬玉を作ることになりました。
- ーー
-
関根先生の作られた薬玉は
どんな風にできているんでしょうか。
- 関根
-
一番上のあわび結びはその絵にも出ているんですが、
結びの紐が薬玉の下までずっと繋がっています。
薬玉の後ろには真ん中に一本の木があって、
そこに何本かの木を渡して、木枠を作っています。
その木枠に、本来は、本物のサツキの花を
挿していくんですが、結びで作った薬玉は、
花一つが1メートル20センチぐらいの紐でできています。
- ーー
- 花一つでそんな長さなんですか。
- 関根
-
はい。木枠に紅白で12枚ずつ花がついているんですけど
花びらは「亀結び」と「らせん梅結び」を
合体したものです。
最初に4つの花びらを結んでおいて、
後で連結して最後に5弁の花にするというのを
西村先生が考えたんです。
- ーー
- すごいですね。
- 関根
-
私ではとても思いつかなかったと思います。
それから周りの蕾もそうですね。
実はこの蕾の後ろのところって
上の結びと同じあわび結びなんですよ。
- ーー
- ちょっと違って見えますが。
- 関根
-
あわび結びってちょっと締めると立体的になるんです。
そうやって丸くしたあわび結びの中に、巻き結びを入れて
蕾にしてるんです。
(写真:大友洋祐氏)
- ーー
-
どれもすごい技術だと思いますが、
一番大変だったのはどんなところでしょうか。
- 関根
-
花の下から出ている丸い葉っぱの結び方は
西村先生に教えていただいたんですが、
真ん中の長い菖蒲の葉っぱを
どうやって結んだらいいかがわからなかったんです。
でもちょうどその時期、父が入院していて
どうしても西村先生の所に通えなかったんですね。
どうしようと思っていたら、
何十年も東京で結びをされている先生の本を
下関でたまたま見つけて、
その中から探して、ここだけ考えて、
あと木枠に結びつける方法もなんだか四苦八苦して考えて、
やっと完成したっていう作品です。
- ーー
- 試行錯誤の末に完成した作品なんですね。
- 関根
-
これは私の作品の中でもちょっと変わっていて、
一つ一つをモチーフとして作ってそれを合体させていく
というものは他ではあまりやってないです。
- ーー
-
花一つ結ぶだけでも大変な作業だと思うんですが、
お時間のある時にずっと結ばれていたんですか。
- 関根
-
そうですね。
この作品はなんとなく、ひたすら結んでいた記憶があります。
行ったり来たりですけど、何があるかわからないので、
新幹線の中でも結んでいたりとか。
- ーー
- どうしてそんなに夢中になれたんでしょうか。
- 関根
-
大好きな仕事を辞めてしまった時に、
趣味的にやっていた結びに
何か惹かれるものがあったんでしょうね。
その頃はいろんな本を読めば読むほど面白くて、
結びをしながら結び関連の本をたくさん読んでいました。
2002年に父のところに通い始めて、
先生のところには2004年から通っていたんですけど、
2006年、2007年と初めて東京で作品展をしたんですね。
その後、2009年に下関の毛利邸っていう質素な大名屋敷で
友人の書の作家さんと一緒に、
重陽の節句と七夕の展示をやったんです。
父はその年の暮れに亡くなるんですが、
重陽の節句のときは、邪魔しちゃいけないって
頑張ってくれまして、
おかげで無事に終わりました。
- ーー
- そうだったんですか。
- 関根
-
はい。それで、父が亡くなった帰りに京都に寄って、
「まあ大変だったわね。
でもこれから一緒に頑張ってやっていきましょう。」
っていう話をした2週間後に、
西村先生が脳溢血で倒れたんです。
全然右手が動かなくなってしまって、
それでも左手だけで結んでましたけど、
6年後にガンが見つかって、
それで先生は亡くなったんです。
でも亡くなるまでの間も、何度か伺って
結びのお話をすることができました。
先生はこの薬玉を完成させられなかったんですけど、
形にしてくれてありがとうって
よく言ってくださいました。
その言葉にとても励まされました。
そんな風に7年間結びばかりやっていたので、
父が亡くなった後も、
このまま結びでずっとやっていこうかなと。
基礎が長かったのがかえって良かったのかなと思います。
(つづきます)