ゴゴゴゴゴゴゴ‥‥ザッパーン‥‥。
カサイ・コギー・イケモトのシニア三人衆が
「ほぼ日」の虫歯を減らそうと地道に活動していた、
ちょうどそのころ。
人気(ひとけ)のない断崖絶壁の地に、
ひとりの女が、たたずんでいた。
雨脚が強い。
女は、コートの襟を立て、身を固くする。
海が‥‥吼えていた。
「とうとう、こんなところまで来てしまった‥‥。
あのことを知られたくないばっかりに」
身じろぎもせず、ずっと海を見つめながら、
女は、ひとりごちる。
ここは、陽光をさえぎる分厚い雲と
怒気をはらんだような波濤が、
すべてを鈍色(にびいろ)に変えてしまう場所。
そう、モノクロの女が
唯一身にまとった、紅いルージュすらも‥‥
「わたしの口のなかにひそむ悪魔、
あのおかしな歯のせいで、
ここまで逃げてきてしまった‥‥」
そのとき、女の背後に人影が立った。
「スガノさん‥‥」
ゆっくりと振り返る女。
「あなたは、ライオン歯科の歯科医であり、
副院長でもある河野先生‥‥」
ここにいない誰かに説明するかのように、
棒読みでそう言って、女は向き直り、
河野先生を見つめる。
女にあわてた様子はない。
まるで以前から、このときを予期していたかのようだ。
「スガノさん、たいへん申し上げにくいのですが
お口のなかに、
少々おかしな歯が」
「はい‥‥知っています」
「いつからご存知だったんですか?」
「以前、息子が通う歯科医院で
『お母さまもついでに』と誘われ、
レントゲンを撮ったことが」
「そこで、おかしな歯の存在は、
すでにわかっていたんですね?」
「はい‥‥」
「そのときに、治療は?」
「虫歯ではないと聞いたので‥‥」
「でも、かなり重篤な状態だということは、
ご存知だったんでしょう?」
「だって‥‥だって!
虫歯でもないのに歯を治療だなんて、
わたしなんかに、そんな資格ないです!」
「そんな‥‥」
「もう、ほっといてください!」
さしのべた河野先生の手を振りはらった女は、
崖の端まで駆け寄り、海をのぞきこむ。
波の砕ける音と、雨風の音だけが、しばらくつづいた。
やがて、意を決したように、河野先生が口をひらく。
「スガノさん」
「はい‥‥」
「あなたのおかしな歯は、
たしかに虫歯ではありません」
「はい」
「スガノさんのお口には、
ほぼ重なるようにして生えている、
2本の歯があります。」
「ええ、そう聞いています」
「いっぽうの歯は舌側、
もういっぽうの歯は唇側に生えていますが、
この唇側にある歯を支える骨が、
正直、あと3ミリ程度なのです」
3ミリの女・スガノの「おかしな歯」のイメージ図。
女の顔があおざめた。
頭のなかに、「あと3ミリ」のフレーズが響き渡り、
リフレインする。
「ああ、ああ、やっぱり3ミリの話になるのね。
その『3ミリ』が、いままでわたしを、
どれだけ苦しめてきたか‥‥」
「やはり、それもご存知だったんですね」
「いつでも、何をするにも、そのことが頭をよぎるんです。
わるいことがあったら、『やっぱり3ミリの女だから』。
いいことがあっても、『でも、どうせ3ミリだから』と」
「ネガティブ思考のスパイラルに」
「はい、そうなんです」
河野先生は、ゆっくりと女に近づき、
やさしく、そっと肩に手をかける。
「そんな苦しみは、もうおわりにしませんか?」
女はうつむき、涙を流しながらこたえる。
「でも‥‥だって、ハリウッドの女優じゃあるまいし、
わたしなんて、歯にお金をかける価値のある
人間じゃないんです」
「いいですか。
このまま放っておいたら、2本とも共倒れ、
つまり、抜けてしまうんですよ。
虫歯ではないけれど、これは決して
美容の問題ではありません」
「‥‥‥‥」
ここだとばかりに、河野先生は掻き口説く。
「がんばれば、よくなります。
どれくらいよくなるかは、
やってみなければわかりませんが
かならずよくなります。
定期的に‥‥そうですね、
2〜3週間に1回くらいの割合で通っていただき、
クリーニングさせていただきたいのです」
河野先生によれば、
2本の歯の並びが悪いため、
どうしても、
自力のブラッシングでは限界があるのだという。
専門家による徹底的なクリーニングで
歯肉を安定させるのである。
長い沈黙のあと、女は顔を上げ、
河野先生のほうに振り向いた。
「手伝って‥‥くれますか?」
「大丈夫! きっとよくなります。
ブラシを信じて」
河野先生の手にいつのまにか握られた歯ブラシが、
女のほうに差し出された。
おずおずと、それを握り返す女。
「ブラシを」
「ええ、ブラシを」
河野先生は、二人で握った歯ブラシに力を込める。
「ありがとう、河野先生。
わたし、がんばれる気がしてきました」
やがて、河野先生に肩を抱かれながら、
一歩一歩、自分の足取りを確かめるかのように、
女は、荒ぶる日本海を背にし、歩き出した。
その行き先は、ひとつ。
そう‥‥目黒のライオン歯科である。
女のたたかいは、はじまった。
レインコートのポケットからは、
河野先生にもらった歯ブラシが、
そのピンクの持ち手を、のぞかせていた。
to be continued‥‥.
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