DAY before 1 Hindu and Buddhism
(田中泰延)※コラム内の写真も撮影
カトマンズ周遊も最終日だ。
明日には日本からみんながやってくる。
浅生鴨さんはもう着いているそうだが、
同じ街にいてもべつに連れ立って歩きたがらない人なので、
好きにするのがよいと思う。
きっと彼のほうもぼくを訪ねてくることはないだろう。

この砂埃舞うカトマンズの街を、
浅生鴨というテレビディレクターの目がとらえ、
浅生鴨という小説家の脳で
考える時間があることに期待が膨らむ。
本音を言うと、なるべく関わらないように心がけたい。
待ち合わせなどしようものなら、
大変な目に遭わされることは間違いない。
彼は迷子の達人なのだ。
きょうは、ふたつの宗教的な聖地を巡る。
そもそも、カトマンズとその周辺の古都を歩くと、
無数の宗教建築がある。
それこそ、街の曲がり角ごとにヒンドゥーの寺があり、
それらはシヴァ神を祀っているかと思えば
観音菩薩像があったりと、
神仏融合の趣があることを不思議に思っていた。
・Pashupatinath
まずは、パシュパティナートを訪れた。
トリブバン国際空港から徒歩すぐ、
というか敷地が隣接したこの寺は、
ネパール最大のヒンドゥー教寺院だ。

参道には、おびただしい人の群れ。
初詣の明治神宮くらいの人の波だ。
だが、いままで見てきたネパール人とは、
顔つきや服装の傾向が違って見える。

あれはぜんぶインド人なんです、
と公式ガイドが英語で教えてくれた。
パシュパティナートは
1500年も前から巡礼の地となっており、
インド四大シヴァ寺院のひとつなのだ。
「何億人もいるインド人の夢は、
生涯に一度はネパールを訪れて、
パシュパティナートに参拝することなんです」
とガイドがまた教えてくれた。
「でも、私はインド人、苦手!」とガイドは笑った。
巨大な寺院内には、常に煙が漂う。 小さな川の流れの両側に広がる境内に、 甘い匂いが満ちている。
肌寒い気候の中で、頭を剃り、
裸で何かを唱え続ける人が川岸にいる。
「彼は喪主です。このバグマティ川は、
インドのガンジス川の上流にあたり、
ここでは毎日、
ガートと呼ばれる場所で火葬が行われています。
この川岸で火葬され、リインカーネーションすることが、
ヒンドゥー教徒の理想なんです」
リインカーネーション、わかりますか?
とガイドは訊いた。
輪廻転生ですよね、と答えると、
ハイ、日本人、わかる、リンネテンショウ、
と彼は日本語で言った。
お葬式の写真を撮ってもよいものですか?
と尋ねると、
ご挨拶してから撮らせてもらってください、と言う。
ぼくが参列者に手を合わせると、
遺族からガイドのほうに、
どうぞ、という手振りが返ってくる。
ぼくはおそるおそるシャッターを切る。
まだ年老いているとは言えない女性の遺体が、
組み上げられた薪の上に安置された。
さすがにご遺体に向けてはレンズを向けられない。
遺族はその周りを回り、経文を唱え、
稲穂を積み上げたところに点火する。
人間を目の前で荼毘に付しているのに、香りは実に甘い。
寺院内を常に漂う煙は、これだったのだ。
「いい匂いのする木と稲穂を燃やします。
しかし、人口百万を超えるカトマンズですから、
ここでは日々同時に何人も、
途切れず葬儀が行われています。
カトマンズの街がいつも煙っているのは、
砂埃のせいだけではないんです」
「見てください、遺族が集まっていますが、
誰も泣いていないでしょう?」
驚いた。まったく、そうなのだ。
若くして亡くなった母であり、妻である女性を、
いままさに荼毘に付しているのに、だれも泣いていない。
「ヒンドゥー教徒は、
死はリインカーネーションへの旅立ちと捉えています。
だから、灰になって聖なるガンガーに流される今日は、
めでたい日なのです。
ヒンドゥーでは、できるだけ急いで火葬します。
あのお母様も、今朝か、昨夜遅くに亡くなった方です」
でも、人間だから、悲しいのも自然ではないですか?
とぼくがいうと、ガイドは答える。
「そういうときは、人目をはばかって、隠れて泣きます。
私も、父が亡くなった時、そうしました」
めでたい門出だといわれても、手を合わせ、
いろいろ思い出してもらい泣きしてしまった日本人のぼく。
だが、ネパール人、そしてヒンドゥー教徒の死生観に
すこしだけ触れた気がして、
ぼくはいつまでも炎をみつめていた。
ガイド氏は最後に、
ガートの対岸にある連なった建物を紹介してくれた。
「ここから向こうの端まで見通してください。
永遠に続くように見えるでしょう。
このオブジェは
マン・アンド・ウーマンをかたどっています。
そうです。人間としての一生の終わりの火葬場と、
生まれてくる新しい生命が、川を挟んで対になっている、
それがパシュパティナートです。
すべては、変化しながら、続いていくんです。
フォー、エバー」
「ここは、ヒンドゥーの聖地ですが、
この境内にもたくさんのブッダの像があります。
ヒンドゥー教と仏教がわけへだてなく
溶け合っているのがネパールなんです。
このあとは仏教の聖地へ行かれることをおすすめします。
ボダナートへ」
広大なパシュパティナートをめぐり、
火葬を見つめているとあっというまに3時間が経っていた。
その間わかりやすい英語で説明してくれた
寺院公式のガイドにチップを渡すと、
日本語で「チョト、少ナイナ」と言われて爆笑した。
こういうユーモアのセンスで迫られると、
ゴメン、チョト少ナカタ、アリガトゴザイマス、
と上積みしてしまう。
お金のやり取りひとつとっても、
こういう和やかなコミュニケーションが、ネパールにはある。
・Boudhanath
ボダナートは、世界のチベット仏教の中心地だ。
ぼくは、先だって
「インドとアジア、ふたつの大陸がぶつかったところに、
ヒマラヤ山脈とネパールの国土が生まれた」と書いたが、
人種についてもアジア系とインド系が複雑に入り混じり、
多民族国家を形成している。
ヒンドゥー教徒は8割を占めるが、
その中にも仏教が混じり合った
複雑な信仰がかたち作られている。
なにしろ、ブッダが生まれた
ルンビニーはネパールにあるのだ。
ボダナートの「ボダ」とは仏陀のこと。
「ナート」は「神」を表す。
寺院の中心には高さ36mの仏塔、ストゥーパがそびえる。
ちなみに、漢字の「塔」というのは
サンスクリットの「ストゥーパ」を
「卒塔婆」と音写したものであり、
略して「塔」と呼ぶんである。
日本語の「塔」はインド語なのですよ。
日本の寺の五重塔とはかなり雰囲気が違う。
なによりその「目」が特徴的で、
これはチベットとネパールの仏塔にみられるものだ。
釈迦の知恵の目が四方、
つまり世界のすべてを見回していることを意味している。
また、よく写真などで見たことのある人も多いと思うが、
旗が八方になびいている。これはタルチョーと呼ばれ、
一枚一枚をよく見ると、仏像や経典が記されている。
いやぁ、仏教はなじみ深くて落ち着くわ。
しかし、あの「目」は少し怖いんだけど。
仏塔のまわりには経典を収めた
マニ車と呼ばれるものが一周している。
一度回すと長いお経を一回唱えたのと同じ功徳があるという
コンビニエントな装置である。
参拝者がこれをカラカラ、カラカラと
手で回し塔の周りを歩く。
ティピカル日本人として
なんとなく仏教徒のぼくもやってみた。
子供にも大人気のアトラクションである。
風がタルチョーをバタバタと揺らす。
マニ車がカラカラと回る。
僧侶が梵語で般若心経を唱えている。
途切れぬ音の中でブッダは無言で世界を見つめる。
この3日間、ヒマラヤを空から眺め、古都を巡り、
ひとびとの信仰を知った。ぼくはカトマンズで考える。
あらためて思うのは、
「発展途上国」「後進国」という呼び名のいい加減さだ。
仰ぎみる自然があり、住むに適した環境があり、
古代からの歴史があり、中世に築かれた都市があり、
そこに生活する人々の笑顔がある。
それは人種、民族にかかわらず、
文明が生まれて以来、人類がほぼ等しく辿り、
培ってきた対等な財産だ。
それぞれの地域、民族は等しく十分に「発展」しているのだ。
そこに産業革命が起きた。
急激な科学の進歩があり、欲望の衝突があり、
占領と収奪が行われた。
それはこの地球の各チームに、
ゲーム上の得点差のようなものをつけた。
わずか200年ほどの間につけられた得点差によって、
特定の国や、地域の人たちが
負け試合を戦わされるのはおかしい。
だから、シャラド・ライのような
人間が立ち上がることになる。
ぼくは彼のいまからのゲームメイキングを
おもしろいと思っている。
彼がスコアを逆転するプレイを見届けようとおもっている。
だからここにやってきたのだ。
何時間もここに座り、日が傾いてきた。
そろそろ鴨さんとデートする時間だ。
明日、みんなが日本から来る前に、
ふたりで食事ぐらいはしよう、と約束していたのだった。