糸井 |
ギュウギュウ詰めで申し訳ありません。
糸井重里です。
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会場 |
(拍手)
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糸井 |
そして、気仙沼・斉吉商店の斉藤和枝さん、
陸前高田・八木澤商店の河野通洋さんです。
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会場 |
(拍手)
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糸井 |
この混雑を続けるわけにもいかないので
今日はすみません、
いつものようにダラダラとはいきません。
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会場 |
(笑)
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糸井 |
なので、ちょっと短いかもしれませんが、
一時間ほど
お話をしていきたいと思っています。
ではさっそく、前提抜きでいきましょう。
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和枝 |
よろしくお願いします。
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糸井 |
おふたりのことをご存知のかたは
もう、たくさんいらっしゃると思うんですが
あらためて、
和枝さんは気仙沼から、
河野さんは陸前高田から来てくださいました。
ふたりとも「仕事の手段を失う」ってことを
2011年の3月11日に経験されました。
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河野 |
はい。
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糸井 |
そこでまずは、
あの地震、そしてあの津波に襲われたあと
どういう状態になってしまったのか。
そのあたりから
あらためておうかがいできればと思います。
和枝さん、いかがでしょうか。
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和枝 |
はい。
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糸井 |
陽気な人です。
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和枝 |
はい(笑)。みなさま、こんにちは。
斉吉商店の和枝と申します。
よろしくお願いいたします。
私たちの場合、
震災では、生産工場と冷蔵庫とお店、
そして自宅がなくなりました。
水産加工業なので
すべて海の近くに建っておりまして、
それが、
ちっちゃな自慢だったりもしたんですけど、
すべて流されてしまいました。
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糸井 |
人の命は、大丈夫だったんですか。
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和枝 |
はい、すごく恵まれていたと思うんですけど、
うちでは家族も、社員も。
いちはやく避難することができまして、
みんな、助かったんです。
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糸井 |
ただ、命以外は何もない状態。
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和枝 |
あ、着てた服は、ありました(笑)。
斉吉商店は、有事のときは白衣を着たまま
逃げるということが決まっていたので‥‥。
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糸井 |
そうなんですよね。
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和枝 |
だから、みんな白衣に長靴姿で逃げました。
私は工場にいたわけでないので、ふつうの‥‥。
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糸井 |
素敵なドレスで。
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和枝 |
はい、いえ、ふつうの洋服で(笑)。
仕事の手帳や鞄だけは持って、避難しました。
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糸井 |
3月11日は、寒かったと思うんですが。
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和枝 |
寒かったです。
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糸井 |
そういう格好はしていらっしゃったんですか。
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和枝 |
いえ、ただのセーターとズボンです。
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糸井 |
河野さんのところも、同じような感じですか?
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河野 |
うちは、社員で亡くなった人がいるんです。
社員の家族も、かなり亡くなっています。
そういう意味で、本当にきつかったですね。
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糸井 |
ああ‥‥。
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河野 |
まあ、それ以外は和枝さんと似たような感じ。
会社も自宅も、すべて流されました。
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糸井 |
そういう状況ですと、「仕事」のことよりも、
真っ先に考えるのは「命」ですよね。
食べ物があるのか、寝る場所はあるのか、
生きていけるか、また津波が襲ってこないか。
再出発しようと思いはじめたのって、
何日くらい経ってからのことだったんですか?
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和枝 |
私‥‥今日は、この「はたらきたい展。」で
お話させていただくということで
あのころのことを思い返していたんですけど‥‥。
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糸井 |
ええ。
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和枝 |
震災の翌日、工場のマネージャーが私に、
「はだらぎたい」って言ったんです。
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糸井 |
え、その時点で?
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和枝 |
食べるものも、着るものもなく、
「水さえ飲めれば一週間は生きっがら」って
みんなで言い合っていたとき。
従業員全員の安否確認に
丸4日くらいかかったんですけど、
「みんな、はだらぎたいって言ってる」って。
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糸井 |
‥‥びっくりしちゃった、今。
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和枝 |
「また、はだらぎたいです」っていうのが、
最初に言われた言葉だったんです。
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糸井 |
今だからこうやって会話もできているけど、
まだ瓦礫がすごくて、水だって‥‥。
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和枝 |
ないです。
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糸井 |
ですよね。
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和枝 |
だから「食べる」とかと同じ、
何か、本能的なものだったのあかなあって。
「はだらぎたい」というのは。
何も何も特別なことではなくて、
食べる、飲む、寝ると、同じところにある。
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糸井 |
あの状況の中で。
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和枝 |
はい。
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糸井 |
はー‥‥河野さんの場合は、どうでしたか?
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河野 |
うちは、もう少しあとでしたかね。
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糸井 |
どのくらい?
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河野 |
一週間は経っていたと思います。
そのころというのは
われわれ、全国から届いた救援物資を
困ってるところに届けて歩くという仕事を
やっていましたので。
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糸井 |
これまでやっていた仕事ではないけれど、
もう目の前に
今やるべき仕事がたくさんあった‥‥と。
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河野 |
はい。
行政の方の4分の1が亡くなられたので、
われわれ民間の事業者でも動ける者は動こうと。
家族が亡くなった人たちはもちろん除いて、
あるいは消防団員の人たちには
最優先で遺体捜索をしてくださいと言って。
それ以外で動ける人は、
いっしょに救援物資を配りましょうと。
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糸井 |
まだまだ混乱が続いている最中ですよね。
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河野 |
南は気仙沼から北は釜石まで、
行政が網羅できないところを回りました。
一軒の家に50人から60人もの人が
避難していたってところもあったんです。
ただ、なまじ家が残っているから、
どこからも救援物資が届かないんですよ。
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糸井 |
そうか。
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河野 |
そのうちに、
和枝さんがご無事でいらっしゃるという話を
人づてに聞いて、
トラックに救援物資を積んで行きました。
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和枝 |
そうでしたね。
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河野 |
で、例の「バラック」の中から(笑)。
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和枝 |
はい(笑)。
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河野 |
いや「バラック」って言ったら失礼なんですけど、
唯一、斉吉さんに残された建物から
和枝さんが、顔も泥だらけの状態で出ていらした。
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和枝 |
そうでした(笑)。
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河野 |
で、すぐに、和枝さんの口から出てきた言葉が
「うち、ラッキーでした」だったんです。
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糸井 |
今じゃ「名言」として語り草になってますが(笑)、
ドロドロの姿で現れて「ラッキーでした」と。
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河野 |
こっちは心配して、必死で
「和枝さんっ、大丈夫ですかっ?」って
言ってるのに
「いやあ、うちは、ラッキーでした」と。
なぜなら
「うちには、これが残ってますから」って、
後ろの「バラック」を指差して。
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糸井 |
のちに「トタン屋根の豪邸」と呼ばれた、あの。
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河野 |
そうです。
で、すぐにまた
「八木澤さん、いつからタレつくります?」って
聞いてきたんですよ。
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糸井 |
おお。
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河野 |
「もう始める気か!」って思いました。
だって、こっちはまだまだ
ボランティアの気持ち満々だったので。
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糸井 |
同じ「はたらく」でも、
向かっていった方向が違ってたんですね。
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河野 |
でも「正しい考えだよな」と思いました。
人間、いちばん怖いのは、
与えられ続けると「自分たちで立つ力」を
知らないうちに失ってしまうこと。
和枝さんは、そのことにもう
気がついていらっしゃったんだなあ、と。
だから、
八木澤商店も早く立ち上がらないと、と。
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糸井 |
うん、うん。
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河野 |
‥‥と思ってたらこの人(和枝さん)は、
続けて「いつ醤油くださいますか」と。
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糸井 |
‥‥ビックリしますよね。
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河野 |
ええ、本当にビックリしました。
<つづきます> |