HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN

憧れていた教師から、
「好き」が生かせる
ヴィレヴァンへ。

超マジメな小学校の非常勤講師が、
「ヴィレッジヴァンガード」に転職。
優等生タイプだった長谷川朗さんは、
なんとなく決めた将来の夢に流されるまま
社会へと漕ぎ出して大苦戦します。
「もう嫌だ、好きなことやりたい」と、
逃げるようにしてたどりついた場所が
書籍・雑貨店のヴィレッジヴァンガード。
自分の「好き」を生かせる仕事と出会って、
ようやくおもしろく働けるようになった
長谷川さんの「なるべく無理しない」働き方。
インタビュアーは、ほぼ日の平野です。

2

逃げ出すために舵を切る。

店内の画像
――
長谷川さんが非常勤講師になって、
先輩に怒られることもあれば、
嫌だなあって思うこともあったと。
いつまで続けていたんですか。
長谷川
非常勤講師は1年ごとの契約なんです。
そこまでは続けようと思っていて、
2学期くらいから考えていたのは、
もともと自分は創作する人になりたかった
という思いをずっと持っていたなあと。
空いたプライベートの時間を使って、
小説まがいのことを書いてみたり、
絵を描いて公募展に出したり、
そういうことをやり始めた時期ですよね。
――
大学生までに、絵も学んでいたんですか。
長谷川
いや、何も学んではいなくて。
ただ、いろいろ見てきた知識やセンスには、
ある程度の自信があったんです。
いいものを見る目は他の人よりは
多少あるなと思ってはいて、
自分の感性で何かをやりたいと思ったんです。
とはいえ、何も創っていたわけじゃないのに
自分はちょっと特別なんじゃないか、
みたいなモヤモヤ~っとした感じ、
若い頃によくある勘違いでした。
――
非常勤講師をしながら、
創作活動をはじめたんですね。
長谷川
「先生は嫌だ、なりたくない!」
みたいな反動のエネルギーで、
ワーッとやっていたのかもしれません。
でも、褒めてもらう機会もあるにはあって。
今はもう倒産しちゃった会社なんですけど、
自費出版の公募展を受けつける
新風舎という会社が主催していた公募展で、
絵本のストーリー部門で
大賞を獲って10万円をもらいました。
小学校を辞めるちょっと手前ぐらいですね。
――
すごい! トントン拍子じゃないですか。
長谷川
「絵本化も決定!」みたいな話になって、
そこで自信はつきましたね。
東京に行って打ち合わせをして、
イラストレーターを誰にするかで
いろいろ話して長引いているうちに
会社が倒産しちゃって絵本にならず。
10万円と、一応の自信をもらいました。
――
じゃあ、受賞作が世に出ていないんですね。
差し支えなければ、
どんなお話か教えていただけますか。
長谷川
めちゃめちゃテレビ大好きな男の子が、
「ご飯のときはテレビを見ないで食べなさい」
と怒られちゃうんです。
男の子はテレビが好きすぎてテレビを食べちゃう。
テレビを食べたらテレビが見られなくなるから、
自分で自分を食べちゃって、
お腹の中のテレビを見に行くっていう話で(笑)。
長谷川朗さん画像
――
すっごいシュール。
怖いもの見たさで読んでみたい気もしますけど。
そこから非常勤講師として1年間働いて、
契約どおりお辞めになるんですよね。
そこからがヴィレッジヴァンガードですか。
長谷川
そうですね、まずはアルバイトから。
創作活動をする時間も欲しかったから、
就職するよりは、アルバイトをしながら
ものづくりする人を目指すことにしたんです。
最初は映画館で映写技師のバイトの面接を
受けてみましたが、支配人がちょっと嫌な感じで、
映画に対する愛が感じられませんでした。
「あ、違うな」と思って、面接を受けた帰り道、
そのままの足で小倉のヴィレヴァンに行って
アルバイトの面接を受けたんです。
ぼくは学生時代から週に2、3回ぐらい
ヴィレヴァンに寄って帰ってたから、
店長もぼくのことを知っていたみたいでした。
「あっ、あいつが来た」みたいな感じ(笑)。
ぼくはそのとき23歳だったんですけど、
ずっと27歳くらいと思われていたらしくて、
「えぇっ!? そんなに若いの?」って。
今も年齢不詳って言われますけど(笑)。
ヴィレヴァンでの仕事は、そこからです。
長谷川朗さん画像
――
ヴィレッジヴァンガードに
お客さんとして通っていたのは、
大学生からですか。
長谷川
いえ、中学生からなんです。
ヴィレヴァンって名古屋発祥なんですけど、
名古屋地区以外に初めてできたのが
ぼくの地元の小倉っていう街でした。
中学の頃にお店ができたときには、
「なんだ、この店は?」って。
ヴィレッジヴァンガードって名前も怪しげだし、
危ないものとかエッチなものも置いてあるし。
――
そうそう、好奇心をくすぐられるんですよね。
ぼくも地元でヴィレヴァンを知ったときには、
ちょっと背伸びして入るようなお店でした。
結局、ヴィレッジヴァンガードの小倉店で
アルバイトとして採用されたわけですよね。
長谷川
最初は社員になる気もなく、
週5でめちゃめちゃ働いてました。
当時の小倉店の店長のことを
ぼくはすごい尊敬してるんですけど、
めちゃめちゃセンスがあって、
お笑いと文学がうまい具合に混ざった人でした。
その店長と、その次の店長のふたりは、
今のヴィレヴァンでもトップクラスだと思います。
すごい人に巡り会えたのがよかったんです。
こんな感じになれたらなって憧れて、
自分も社員を目指すことになったんです。
その頃になると制作活動も止まってましたね。
仕事のほうがたのしくて。
――
社員になるつもりもなかったところから、
現在はもう社歴15年ですよね。
アルバイトとしては何年ぐらい
働かれたのでしょうか。
長谷川
アルバイトとしては、2年間。
小倉店はラフォーレビルの地下に入ってましたが、
上のラフォーレが撤退して
ゴーストビルみたいになったんです。
そのタイミングで店長が吉祥寺店に引き抜かれて、
「代わりの店長が来るまで、長谷川が代理でやれ。
3か月で結果を残せたら、そのまま店長にするから」
ということで、ぼくが代理の店長になりました。
そのあと結局、店長になる人も来なかったんで、
2、3週間してから、ぼくが店長になりました。
「お前、そのまま店長になれ」
「あっ、わかりました」って(笑)。
――
店長としては新人だった長谷川さんは、
ゴーストビル状態の小倉店で
どんなことをしたのでしょうか。
長谷川
ラフォーレがなくなったのと同時に、
ヴィレヴァンも閉店したと思っている人が多かったので、
「ヴィレヴァンやってるよ!」
というのをどれだけ広げられるかの勝負でした。
その頃はSNSもない時代なので、
地道に駅前でビラを配ったり、
夜中のポスティングもやってましたね。
当時の小倉店はファッションビルの中にあるのに、
路面店みたいな自由さだって評判だったんです。
全国売上でトップレベルの店よりも
クオリティが高いとも言われていたので、
そのテイストは崩さないよう心がけてました。
あとは、他の店舗が売上を取ろうとして
仕入れている商品よりも、
ぼくの個人的に好きなものとか、
変わったものをバンバン入れて差別化したのと、
売上を取れるところはバランスよく取りました。
――
前の店長の影響もあるでしょうし、
新人が育つには環境がよかったんですね。
長谷川
人とタイミングには、
ずっと恵まれている感じはありますね。
ラフォーレが撤退して1年、
普通だったら昨対(昨年対比売上)が
100%を切るのが当たり前みたいな条件でしたが、
100%を超えることができたんです。
地道に頑張ったのを本部が認めてくれて、
全国で20番目ぐらい売り上げる店舗の
店長に抜擢されて、新潟に移りました。
転勤と言っても九州のどこかかなと思っていたら、
いきなり新潟って言われたんで驚きました。
まあでも、「わかりました」って。
――
新潟は新潟で期待されて行ったわけですし、
プレッシャーもあったんじゃないですか。
長谷川
新潟店は本当に条件がよかったんです。
オープンしてまだ2、3年目ぐらいで、
数字が伸びる余地がまだまだありました。
それと、中越地震からの復興に向けて、
新潟県内全体が勢いづいていましたから。
条件としてはいい数字が出るのが当たり前ですが、
前年比売上の150%とか出して、
条件以上に、その数字にインパクトがありました。
ぼくはタイミングが重なっただけなのに、
「すげえな、お前!」みたいな感じで認められて、
1年でマネージャーに昇格したんです(笑)。
長谷川朗さん画像
――
だいぶ軌道に乗ってきましたね。
長谷川
まあ、運とタイミングがよかっただけなんで。
その時期は新潟自体が盛り上がっていましたし、
アルバイトの子も含めてみんな、
すごいメンバーだったんで助かりました。
――
新潟には、何年くらいいたのでしょう。
長谷川
新潟にはちょうど2年間。
そこから東京、高円寺店へ転勤です。
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