15年間に及ぶ
テレビゲーム開発を経て、
「すごろくや」を設立。
丸田康司さんは、日本でも有数の
ボードゲーム・カードゲームの専門店
「すごろくや」の代表取締役社長です。
ほぼ日とも長い付き合いがあり、
「生活のたのしみ展」にお店を出展してくださったり、
TOBICHIでイベントを開催してくださったり、
「ボードゲームといえば丸田さん!」
と、常にみんなが頼りにしている存在です。
でも実は丸田さん、かつては15年間も
テレビゲームの業界にいて、
『MOTHER2』『風来のシレン2』『ホームランド』
などの開発に関わっていた方なんです。
分野が違う世界に飛び込んだ背景には、
どんな思いがあったのでしょう。
担当は、ほぼ日の藤田です。
もの作りが好きだった。
- ――
- 丸田さんに答えていただいた
アンケート回答のなかに、学生時代、
「テレビゲームの開発者になりたかった」
とあります。
- 丸田
- そうですね、なりたかったです。
- ――
- もともとテレビゲームが
お好きだったんですか。
- 丸田
- はい。すごく好きでした。
ぼくが小学生のころって、
まずインベーダーゲームのブームがあったり、
家庭用の「ブロックくずし」という
テレビゲームが生まれたりと、
おもしろいゲームが
どんどん出はじめた時期だったんです。
でも、それらを誰かが作っているという意識はなく、
子ども心に、どこかで自動的にゲームが
作られているように思っていました。
- ――
- 自動で。
- 丸田
- そんなはずはないのにね。
でも、小学校高学年のころ、
パソコン――当時は「マイコン」と呼んでましたけど、
マイコンを使うと、そういうゲームの
プログラムが自分で作れるということに気付きまして、
自作して遊ぶようになったんです。
- ――
- 小学生でそんなことを。
- 丸田
- もともと、もの作りに対しての
気概がある子どもというか、
たとえば学校で筆箱を組み合わせて何かを作ったり、
ちょっとしたシアターっぽいものを
作ったりするような子どもだったんです。
親も、もの作りが好きだったし、
環境的にも良かったのかもしれません。
小学校の卒業文集には
「電気屋かテレビゲームの開発者になる」
と書きました。
- ――
- 小学生のころの夢なんて、
もっと漠然としていると思うんですけど、
そんなに明確になっていたというのは
すごいです。
- 丸田
- その時点で決まっているのが
いいことかどうかわからないですけどね。
それで、高校でも技術を学びたくて
工業高校に進みました。
進路を考えるころ、
大学に行って何をするんだろう、
早く現場に行きたい、と思って就職活動をはじめます。
ぼくは愛知県に住んでいたので、
主に愛知や三重のゲーム制作会社、あと東京の
制作会社も受けたんですけど、見事に落ちました。
自分で作っていたゲームも
アマチュアに毛が生えたようなものだったし、
これじゃダメだね、と一蹴されて。
ちゃんと見せられるものを作らなきゃダメか、
ということで専門を学べるところに行けたら、と
思いはじめたんです。
- ――
- というと、専門学校に進まれた?
- 丸田
- そうしようと思ったんですけど、
当時はテレビゲーム開発の
専門学校がなかったんです。
しょうがない、と思って、
就職浪人みたいな形で一年働きつつ、
力をつけようと思っていたところに、
「HUMANクリエイティブスクール」
というゲームクリエイターを養成する
専門学校が日本に設立されたんです。
- ――
- おお。
- 丸田
- 「HUMAN」という
ゲームソフトの開発会社があって、
そこの現場スタッフや開発の人間が
講師となって人を育てる、という学校でした。
ぼくはお金もなかったけど、
新聞配達をする「新聞奨学生」
というものを見つけまして、
それに飛びついて、東京に来ました。
- ――
- いいタイミングで学校ができたんですね。
- 丸田
- これは! と思いました。
その学校は吉祥寺にあったので、
ぼくも東京に出てきて
その学校の一期生として通いはじめます。
そしたら、これまで独学で作っていたこともあって、
他の人よりははるかにできたんです。
変な奴がいるぞということが
だんだん知られるようになっていきました。
BGMを奏でるためのシーケンサーを勝手に作ったり、
実際にゲームで使われていた
教材用のプログラムより速いものを
ぼくが書いちゃったりして、一目置かれたり。
でも、ぼくはプログラム専門だとは思ってませんでした。
「ひとりビートルズ」みたいな人いるじゃないですか。
あんな感じでゲームを全部自分ひとりで
作ろうとしてたんです。
- ――
- 全部、というと、企画から?
- 丸田
- はい。企画から開発までを
ひとりでやるつもりでした。
当時はインターネットもない時代ですけど、
ゲームのプログラムを
みんなで投稿し合うような雑誌が何冊かあったんです。
プログラムの文字を音に変えて
カセットテープに入れて郵送で送って、
編集部がそれを受け取る。
そのプログラムリストを印刷したものが雑誌になる。
そのゲームで遊びたい場合は、
雑誌を見ながら、
猛烈にプログラムを1つ1つ打ち込むわけです。
- ――
- 1つ1つ。
大変そう‥‥。
- 丸田
- その時代、そういう人はわりといたはずですよ。
完成したらそれで遊べるわけだから、
あまり苦だとは思わずにやってました。
その投稿者のなかに、
中村光一さんという凄腕の
「ひとりでぜんぶ作る方」がいて、
すごい人がいるな、と思ってました。
今はスパイク・チュンソフトの会長ですけど、
当時は投稿者のひとりだったんです。
- ――
- 『ドラゴンクエスト』を
開発された方ですか。
- 丸田
- そうそう。
それで学校を卒業するにあたり、
どこかに就職、という話になります。
みんなはその学校の系列会社に
就職する話が来るんですけど、
ぼくだけ、なぜか、
「すぎやまこういち先生のところに行かないか」
という謎の話が来るんです。
意味がわからなかったです。
すぎやまこういちさんというと作曲家です。
- ――
- そこに来いと。
- 丸田
- 20歳のときでした。
何でだろう、作曲家の下で何をするのかな、
と思うわけですけど、後でわかったのは、
すぎやま先生のゲームコミュニティ
というものが存在したんです。
メンバーには、
後に『ポケモン』をプロデュースする
石原恒和さんもいたし、
それから糸井さんもいました。
よくよく考えてみれば、
すぎやま先生は、さきほどの中村光一さんが
ドラクエシリーズを作られたとき、
音楽を担当されています。
まあ、その界隈にどうですか、というのを
コーディネートしてくれたのが任天堂の人事の方でした。
ぼくも「よくわかんないですけど行きます」と言って、
SEDIC(セディック)という
映像や音楽の制作配給会社に入ることになりました。
石原恒和さんが率いる
テレビゲーム制作室に配属になり、
そこでまずは、いろいろアートっぽい
プログラムを作ることになったんです。
- ――
- アートっぽいプログラム?
- 丸田
- はい。そのころ東京には
クリエイティブでちょっと尖った
最先端の商品がいくつも生まれていました。
それらを紹介する動画を作ろう、という企画があって、
石原さんが、
「ビデオじゃなく、スーパーファミコンを
メディアとして使った映像展示ができないか」
ということをやりはじめたんです。
- ――
- スーパーファミコンを
メディアとして使う。
- 丸田
- はい。スーパーファミコンのカセットに
通常のゲームソフトではありえないほど
大容量のロム(記憶装置)を積んで、
ぼくがプログラムを書きました。
その制作過程で、色でグラデーションを作って
色を循環させると、
画面が流れているような効果が生まれ、
それをスーパーファミコンの半透明機能で
重ね合わせてみたら、
極彩色の、ちょっとトリップするような
雰囲気の背景ができた。
それで石原さんに「こんなのできたんですけど」
という話をしていて‥‥。
実は、それが後の、
『MOTHER2』の背景につながるんです。
- ――
- ええ! すごい。
- 丸田
- そういうきっかけもあって、
もともとぼくは
『MOTHER2』とは別部隊だったんですけど、
そっちの制作が遅れてるので
手伝ってくれないか、というお話があり、
そのお手伝いをしはじめたんです。
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