HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN

15年間に及ぶ
テレビゲーム開発を経て、
「すごろくや」を設立。

丸田康司さんは、日本でも有数の
ボードゲーム・カードゲームの専門店
すごろくや」の代表取締役社長です。
ほぼ日とも長い付き合いがあり、
「生活のたのしみ展」にお店を出展してくださったり、
TOBICHIでイベントを開催してくださったり、
「ボードゲームといえば丸田さん!」
と、常にみんなが頼りにしている存在です。
でも実は丸田さん、かつては15年間も
テレビゲームの業界にいて、
『MOTHER2』『風来のシレン2』『ホームランド』
などの開発に関わっていた方なんです。
分野が違う世界に飛び込んだ背景には、
どんな思いがあったのでしょう。
担当は、ほぼ日の藤田です。

2

全部をやりたい。

――
テレビゲームの開発をされていたころって、
全然ボードゲームとは
かかわりがなかったんですか?
丸田
いえ。セディックに入ったとき、
ドイツ系のボードゲームの洗礼を受けましたよ。
あれはたしか1991年ごろです。
六本木の一角に、
「プレイシングス」という、
たぶん日本ではじめてドイツ系のボードゲームを
輸入して売っているお店があったんです。
セディックのテレビゲーム制作室の面々は、
そこでボードゲームを買って遊んでいました。
ちょっと自分たちでも作ってみたりして。
片や、糸井さんたちも
夜な夜なセディックに来て、
会議室で朝までモノポリーをやっていたり、
そういう時代がありました。
――
朝まで!
すごいですね。
丸田
で、その後『MOTHER2』開発の
雲行きが怪しくなってきて、
セディックの開発チームは
APE(エイプ)という糸井さんの会社に移籍することになり、
テレビゲーム制作室のリーダーだった石原さんと、
その仲間たちと一緒にぼくもエイプに移ります。
それでもやっぱり完成しなくて、
いよいよ岩田さんが来るんです。
――
任天堂元社長の岩田聡さん。
難航し、行き詰まっていた『MOTHER2』を
完成まで導いたんですよね。
丸田
はい。『MOTHER2』の開発にあたって、
岩田さんにはものすごくいろんなことを
していただいたと思っています。
――
そのなかで、丸田さんの役割は
どういうものだったんですか?
丸田
ぼくは、岩田さんが来るまではずっと、
ゲーム開発の基盤となる
下ごしらえをやっていた、と思ってます。
丸田康司さん画像
――
下ごしらえ。
丸田
ゲームを作るとき、絵をキャンバスに描いたり、
文字を原稿用紙やテキストファイルに書いたり、
音を作ったり、
それだけじゃゲームはできないんですよ。
そういう素材さえあればプログラマーが
何とかしてくれると思われがちなんですけど、
じつはそうじゃないんですね。
ゲームの規模が大きくなればなるほど、分業も必要だったし、
絵とか文字とか音といったものを
ゲームのなかで表現するには、
プログラムを念頭においた設計と、
その枠に沿った下準備が必要なんです。
一方で、あまりにプログラムの都合ばかり考えると
ゲームの幅が狭くなってしまいます。
ひとつのフォーマットしか
許容できないような設計だと、
あの「どせいさんフォント」も表示できないんです。
――
ユニークな文字も表現できなくなる。
丸田
そう。おもしろいことをやりたいんだったら、
こういう形式でデータを書いて、
こういうルールに従って絵や文字を描いてください、
というような設計に基く下ごしらえが必要だった。
容量があるわけだから、これ以上は詰め込めません、
という線引きもしてましたし、
ゲームとプログラムの両方を考えていました。
ゲームをひとりで作る気でやってきた
自分の役割だったと思っています。
ということで、ここまで大規模なものを
作ったこともない22、23才が
材料をどうにか整えていたんだけど、
肝心の、メインプログラムが一向に進まない。
ぼくもプログラマーの一員ではあったんですけど、
実際の動きを任されていた
メインのプログラマーは別にいて、
でも、待てど暮らせど進まない。
だって、あの岩田さんがその後、
5人の超精鋭を率いて取り組んで、
それでも1年以上かかってやっと完成したんです。
それをね、当時、ほぼひとりのプログラマーが抱えて
完成まで持っていくなんて、
当然無理な話だったと思います。
――
そのあたりのこと、
ほぼ日の『MOTHER2』コンテンツでも
何度か触れていますけど、
本当に大変な状況だったんですね。
丸田
大変でした。
夜中にみんなで、何でできないんだろう、
みたいに悩んだり。
石原さんも大変だったと思います。
だって、今のぼくより全然若いときに
そういう状況を突き付けられていたわけだから。
で、『MOTHER2』が完成し、
その英語版がでたころかな、
今度はぼく自身がその先について悩みはじめます。
マンガ的な表現でいうと、
ちょうど顔に縦線が入ったような状態に
なってしまって(笑)。
25歳ぐらいのときでした。
――
25で顔に縦線が‥‥。
丸田
そのときはどういう思いで
悩んでるのかわかってなかったんです。
でもまあ、今振り返って大きく分けると、
一つは、社会に対して自分は
何ができるんだろうっていうような悩み。
もう一つは、自分はプログラマーとして
期待されてるようだけども、
自分は違うと思っている、
ということだったと思います。
たしかにぼくはプログラムもうまく書ける。
だけど、最初の話に戻ると、
ぼくはもともと全部やりたい人間だったんです。
丸田康司さん画像
――
全部やりたい。
全体を見渡してる人っていう意味ですか。
丸田
はい。なかなかいないんですよ。
たとえば、バンドをやろうぜっていったときに、
ドラム誰にする? の話になりやすい。
そのなかに全部できる人間がいると、
おまえドラムもできるの?じゃあお願いね、
という話になるわけです。
サッカーでいうと、キーパーは誰がやる?
という話です。
もちろん最初からドラムやキーパーが
やりたい人もいると思うので、割合の話ですけど。
ぼくはプログラムもできるけど、
本当は全部を作りたかったから
プログラムも習得しただけです。
たのしいこと、人を喜ばせることのために、
足りないものは作るけど、
専門に特化してそこだけを極めたい、
というタイプではなかった。
会社を辞めるにあたって、
石原さんから、いろんな人と話しなさい、と、
マリオの宮本さんなど、
さまざまな方との相談を設けていただきました。
その中で、岩田さんからは、
「君はプログラマー専門でいくべきだ」
というようなことを言っていただいたんですけど。
――
岩田さんから?
丸田
そうそう。
そう言っていただけて本当にありがたかったけど、
それを聞いて改めて自分は、プログラム専門というのは、
やっぱり違うな、と思っていました。
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