- 古賀
- 3年後のことも考えられるようになった、
というのは
震災関連のことや気仙沼に関わるようになったことは
関係してますか。 - 糸井
- 震災はでかいですね。
ただ、震災前から
俺がずっと基準にしようと思っていることがあって。
それは、自分になにか辛いことがあったときに
大変だったね、大丈夫?って
優しくしてくれるみんなの行為を、
素直に受け取れるかどうか。
そういうことをずっと思っていたので
被災地に対して、
自分に何ができるかなって考えた時に、
震災にあった人達と友達になりたいって思ったんです。
それはどうしてかというと、
友達が言ってくれた言葉だったら
素直に聞けるんじゃないかと思って。
友達じゃない人からいろんなこと言われても、
「うん、ありがとうね、ありがとうね」の後に、
やっぱり「ございます」が付いちゃう。
- 古賀
- ああ、なるほど。
- 糸井
- あの時は誰々が何々してくれたから、
ちゃんと返さなきゃとか、
割とすぐに思っちゃうところがあって、俺は。
そこで、先ず第一に、
普通に友達に接するように「ありがとう」って
言ってくれる関係を築くことはとても大切でした。
と同時に、
俺が普通のありがとう以上のことを
恩着せがましくしたら、
彼ら、彼女らは「ありがとう」とは
言わないと思うんですよね。
そこが基準になりました。
あげればあげるほどいいと思ってる人も
中にはいるじゃないですか。 - 古賀
- そうですね。
- 糸井
- でも、それは絶対違うと思うんです。
向こう側から僕を見て、
余計なことを、って思われるようなこと
してないかなっていうのは
いつも気にするようになりましたね。
僕が東京大震災に遭ったとする。
そうなった時に、
地方の人からたくさんの支援があるとします。
でもきっとこちらの望む望まないに関わらず
着古したセーター送ってくる人もいれば、
自身を顧みずに援助活動をしてくれる人もいれば、
様々だと思うんです。
そうやって、僕らが被災したと考えた時、
それらの「親切」を
ごく自然なこととして享受できるだろうか。
「ありがとう」って言いっぱなしで
何年間も生きていけるだろうか、って。 - 古賀
- 震災の時に、
当事者じゃなさすぎる、という言い方をされてた
じゃないですか。
でもやっぱり当事者になることはできない。
特に福島との付き合い方、距離感の問題とか
難しいと思うんですけど、
そこを不自然じゃない距離感にするためにも
友達になるということになるんですかね。
- 糸井
- そうですね。
もし前から知ってる人がそこにいたら、
こういう付き合い方したいなっていう風に
考えたんです。
たぶん、親戚って考えてもダメなんですよ、
俺の場合はちょっと切実じゃない。
でも家族って考えると、
今度は重すぎるんですよね。
それはもう当事者に近い。 - 古賀
- そうですね。
- 糸井
- 例えば福島とか岩手に転校して行った友達がいて、
どうしてるかな、と思った日に震災があった、
って考えると、
「お前ほんとうにマズイな」って悪口も言えるし。
そうやって一筋の考え方を見つけたかな。
古賀さんは
震災の時はどう自分の考えを納めようと思った? - 古賀
- 僕はちょうどcakesの加藤さんと一緒に
本を作っている時でした。
5月ぐらいに出版予定の本だったんですが、
震災には特に何も触れずに出すつもりでいました。
でももうすぐ入稿というぐらいのタイミングで、
震災なんてなかったように
その本がポンと出てくるというのは
明らかにおかしいよねっていう話になって。
本のテーマ自体は
全然震災とは関係なかったんですけど、
とりあえず現地に行って
取材をしようということになり、
著者の方と一緒に3人で現地を回りました。
僕らが行ったのが4月だったのですが、
瓦礫がただもうバーーッとあって
もうほんとに言葉にならない状況で… - 糸井
- その頃はもう行くだけで大変ですよね。
- 古賀
- そうですね。
交通手段も限られてるような状態だったので。
その時に感じたのは、
今のこの状況の収集は、
自衛隊の方とか、その道のプロの人達に
任せるしかないということ。
東京にいる僕らにできるのは、
とにかく自分達が元気になることだな、
と思ったんですよね。
自分達がここで下を向いてつまらない本作ったり、
過剰に自粛したりとかそういうことではなく、
むしろ西の方とか元気な人たちと一緒に、
僕達がちゃんとしてなきゃと思いました。
自分達まで下向いてしまったら、
東北の人達も立ち直ることが
なかなか難しいだろうから、って。
そういうわけで、
意識を逆に西に向けてた時期でした。
それしか出来なかったですね、
あの瓦礫の山を見てしまったら。
- 糸井
- 無量感ですよね。
- 古賀
- 本当にあそこでは何もできないな、と思ったので。
- 糸井
- あの何もできないという思いは、
ずっと形を変えて、
小さく僕の中に今も残ってます。
現場にいてくれた人に対する感謝と共にね。
今はもうないですからね、瓦礫。 - 古賀
- あの時は、
本当に20年ぐらいかかるだろうなと思いました。 - 糸井
- 思いますよね。
でも今はもうきれいになりましたよ全く。
僕は、あの時半端にみんなで
生ぬるかったりする被災地の物語を作っても、
何の意味もない、と思ってました。
映画を作ることが決まってる人のことも止めたり、
わりにお節介をしていましたね。
まだ出番はあるから、みたいな言い方して。
そして、それは自分に言ってた気がする。
そういう時には、自分の肩書きって結構邪魔で。
「ライターだから、編集者だから」っていう風に
立場でものを考えるって発想を、
なるべくやめようと思ったんですよね。実は。
その辺りが、
さっきの古賀さんの震災の時の話とは
違ったところかもしれないですね。
一個人の人間として、どうするかっていうのを、
とにかく先に考えようと思ったんですよ。
そうじゃないと結局、
職業によっては今は何も役に立たなくて、
来てもらっちゃ困る場合だってあるわけで。 - 古賀
- そうですね、なるほど。
- 糸井
- ギターを持って出かけて行った
歌い手の人とか、いっぱいいたけど、
実際問題、
「君は来て欲しいけど、君は来て欲しくない」
ってことは絶対あったと思うんですね。
でもみんな自分にできることは何だろうって
それぞれ考えて、ついギター持って行くわけで。
でもそれは違うんだろうな、と思った。
僕はだから「糸井重里」としてではなくて、
豚汁配る場所で列を真っ直ぐにするような(笑)
名前はないんだけど、現実的な仕事で
僕らに何ができるか、ということを、
可能な限り考えたかったんですよね。
でもずっと悩んでました。
だってわからなかったから。
- 古賀
- そうですよね。
- 糸井
- だから、東北に友達をつくって
「彼らの御用聞きになろう」って決めましたね。
もしも震災がなくて、
あぁいうことを考えなかったら、
今僕らはこんなことしてないんじゃないですかね。
もっとつまらない、虚しい小競り合いをしたり。
あるいはカラスがガラス玉を集めるような、
小さな小さなことをしてたんじゃないかな。
でも実際もたないんです、それじゃ。 - 古賀
- 震災に関してもそうなんですけど、
糸井さんのやっていることが
はたから見て慈善活動とか
いいことをしているように見える場合、
反響として、
いい面と悪い面とがあるじゃないですか。
糸井さんやほぼ日の活動を見てると、
そこをすごく上手くコントロールしている
というか、
しっかりと、糸井さんなりの正しい道を選んでる、
という印象を受けたんです。
実際そういう風に対人で何かをするときって
バランスが難しい。
「俺達はいいことをやってるんだ」
って自分を規定して、
結構間違ったことをする人も少なくない
と思うんです。
だから活動の起点になった
「友達の御用聞き」という考え方が、
たぶん他のそういう人たちとは
違う部分なんだろうな、と思いますね。
✒️場が温まり、話も深まってまいりました。
話の方向は意外にも、男子らしい展開に…
…第4回へ続きます。