もくじ
第1回「業界のために」 2016-05-16-Mon
第2回「確実な今日と、三年後」 2016-05-16-Mon
第3回「自分にできることを考える」 2016-05-16-Mon
第4回「本物になるために」 2016-05-16-Mon
第5回「現実的なお金」 2016-05-16-Mon
第6回「ヒットの考え方」 2016-05-16-Mon
第7回「この先に続く人生」 2016-05-16-Mon

90年生まれ。
自由な物書きになるべく、修行中。
人間生活を大切に、がモットー。

古賀史健さんと話した、いろんなこと 

第3回 「自分にできることを考える」

古賀
3年後のことも考えられるようになった、
というのは
震災関連のことや気仙沼に関わるようになったことは
関係してますか。
糸井
震災はでかいですね。
ただ、震災前から
俺がずっと基準にしようと思っていることがあって。
それは、自分になにか辛いことがあったときに
大変だったね、大丈夫?って
優しくしてくれるみんなの行為を、
素直に受け取れるかどうか。
そういうことをずっと思っていたので
被災地に対して、
自分に何ができるかなって考えた時に、
震災にあった人達と友達になりたいって思ったんです。
それはどうしてかというと、
友達が言ってくれた言葉だったら
素直に聞けるんじゃないかと思って。
友達じゃない人からいろんなこと言われても、
「うん、ありがとうね、ありがとうね」の後に、
やっぱり「ございます」が付いちゃう。

古賀
ああ、なるほど。
糸井
あの時は誰々が何々してくれたから、
ちゃんと返さなきゃとか、
割とすぐに思っちゃうところがあって、俺は。
そこで、先ず第一に、
普通に友達に接するように「ありがとう」って
言ってくれる関係を築くことはとても大切でした。
と同時に、
俺が普通のありがとう以上のことを
恩着せがましくしたら、
彼ら、彼女らは「ありがとう」とは
言わないと思うんですよね。
そこが基準になりました。
あげればあげるほどいいと思ってる人も
中にはいるじゃないですか。
古賀
そうですね。
糸井 
でも、それは絶対違うと思うんです。
向こう側から僕を見て、
余計なことを、って思われるようなこと
してないかなっていうのは
いつも気にするようになりましたね。
僕が東京大震災に遭ったとする。
そうなった時に、
地方の人からたくさんの支援があるとします。
でもきっとこちらの望む望まないに関わらず
着古したセーター送ってくる人もいれば、
自身を顧みずに援助活動をしてくれる人もいれば、
様々だと思うんです。
そうやって、僕らが被災したと考えた時、
それらの「親切」を
ごく自然なこととして享受できるだろうか。
「ありがとう」って言いっぱなしで
何年間も生きていけるだろうか、って。
古賀
震災の時に、
当事者じゃなさすぎる、という言い方をされてた
じゃないですか。
でもやっぱり当事者になることはできない。
特に福島との付き合い方、距離感の問題とか
難しいと思うんですけど、
そこを不自然じゃない距離感にするためにも
友達になるということになるんですかね。

糸井
そうですね。
もし前から知ってる人がそこにいたら、
こういう付き合い方したいなっていう風に
考えたんです。
たぶん、親戚って考えてもダメなんですよ、
俺の場合はちょっと切実じゃない。
でも家族って考えると、
今度は重すぎるんですよね。
それはもう当事者に近い。
古賀
そうですね。
糸井
例えば福島とか岩手に転校して行った友達がいて、
どうしてるかな、と思った日に震災があった、
って考えると、
「お前ほんとうにマズイな」って悪口も言えるし。
そうやって一筋の考え方を見つけたかな。
古賀さんは
震災の時はどう自分の考えを納めようと思った?
古賀
僕はちょうどcakesの加藤さんと一緒に
本を作っている時でした。
5月ぐらいに出版予定の本だったんですが、
震災には特に何も触れずに出すつもりでいました。
でももうすぐ入稿というぐらいのタイミングで、
震災なんてなかったように
その本がポンと出てくるというのは
明らかにおかしいよねっていう話になって。
本のテーマ自体は
全然震災とは関係なかったんですけど、
とりあえず現地に行って
取材をしようということになり、
著者の方と一緒に3人で現地を回りました。
僕らが行ったのが4月だったのですが、
瓦礫がただもうバーーッとあって
もうほんとに言葉にならない状況で…
糸井
その頃はもう行くだけで大変ですよね。
古賀
そうですね。
交通手段も限られてるような状態だったので。
その時に感じたのは、
今のこの状況の収集は、
自衛隊の方とか、その道のプロの人達に
任せるしかないということ。
東京にいる僕らにできるのは、
とにかく自分達が元気になることだな、
と思ったんですよね。
自分達がここで下を向いてつまらない本作ったり、
過剰に自粛したりとかそういうことではなく、
むしろ西の方とか元気な人たちと一緒に、
僕達がちゃんとしてなきゃと思いました。
自分達まで下向いてしまったら、
東北の人達も立ち直ることが
なかなか難しいだろうから、って。
そういうわけで、
意識を逆に西に向けてた時期でした。
それしか出来なかったですね、
あの瓦礫の山を見てしまったら。

糸井
無量感ですよね。
古賀
本当にあそこでは何もできないな、と思ったので。
糸井
あの何もできないという思いは、
ずっと形を変えて、
小さく僕の中に今も残ってます。    
現場にいてくれた人に対する感謝と共にね。
今はもうないですからね、瓦礫。
古賀
あの時は、
本当に20年ぐらいかかるだろうなと思いました。
糸井
思いますよね。
でも今はもうきれいになりましたよ全く。
僕は、あの時半端にみんなで
生ぬるかったりする被災地の物語を作っても、
何の意味もない、と思ってました。
映画を作ることが決まってる人のことも止めたり、
わりにお節介をしていましたね。
まだ出番はあるから、みたいな言い方して。
そして、それは自分に言ってた気がする。
そういう時には、自分の肩書きって結構邪魔で。
「ライターだから、編集者だから」っていう風に
立場でものを考えるって発想を、
なるべくやめようと思ったんですよね。実は。
その辺りが、
さっきの古賀さんの震災の時の話とは
違ったところかもしれないですね。
一個人の人間として、どうするかっていうのを、
とにかく先に考えようと思ったんですよ。
そうじゃないと結局、
職業によっては今は何も役に立たなくて、
来てもらっちゃ困る場合だってあるわけで。
古賀
そうですね、なるほど。
糸井
ギターを持って出かけて行った
歌い手の人とか、いっぱいいたけど、
実際問題、
「君は来て欲しいけど、君は来て欲しくない」
ってことは絶対あったと思うんですね。
でもみんな自分にできることは何だろうって
それぞれ考えて、ついギター持って行くわけで。
でもそれは違うんだろうな、と思った。
僕はだから「糸井重里」としてではなくて、
豚汁配る場所で列を真っ直ぐにするような(笑)
名前はないんだけど、現実的な仕事で
僕らに何ができるか、ということを、
可能な限り考えたかったんですよね。
でもずっと悩んでました。
だってわからなかったから。

古賀
そうですよね。
糸井
だから、東北に友達をつくって
「彼らの御用聞きになろう」って決めましたね。
もしも震災がなくて、
あぁいうことを考えなかったら、
今僕らはこんなことしてないんじゃないですかね。
もっとつまらない、虚しい小競り合いをしたり。
あるいはカラスがガラス玉を集めるような、
小さな小さなことをしてたんじゃないかな。
でも実際もたないんです、それじゃ。
古賀
震災に関してもそうなんですけど、
糸井さんのやっていることが
はたから見て慈善活動とか
いいことをしているように見える場合、
反響として、
いい面と悪い面とがあるじゃないですか。
糸井さんやほぼ日の活動を見てると、
そこをすごく上手くコントロールしている
というか、
しっかりと、糸井さんなりの正しい道を選んでる、
という印象を受けたんです。
実際そういう風に対人で何かをするときって
バランスが難しい。
「俺達はいいことをやってるんだ」
って自分を規定して、
結構間違ったことをする人も少なくない
と思うんです。
だから活動の起点になった
「友達の御用聞き」という考え方が、
たぶん他のそういう人たちとは
違う部分なんだろうな、と思いますね。


✒️場が温まり、話も深まってまいりました。
話の方向は意外にも、男子らしい展開に…
…第4回へ続きます

第4回 「本物になるために」