39歳・妻子あり
2001年 編集プロダクション入社
2004年 広告制作会社入社
2006年 コピーライター事務所入社
2006年 広告制作会社入社
2010年 人材紹介会社入社
2012年 独立
筆者との関係:同業の友人
ー肩書きは「コピーライター」でいいのかな?
今やっている仕事って、ひとことでは表しにくいよね。
むずかしいんだよね。
コピーライターとして商品やサービスの広告も作るけど、
それよりも前段階の
「どんな商品を作ればいいんだろう」っていう、
まだ商品が何もない根っこのところから
お客さんと一緒にコンセプトを考えて、
企業や商品のブランドづくりをする仕事だからね。
「コピーライター」って書いちゃうと、
こぼれ落ちるものがいっぱいありそうで、
名刺には、肩書きは何も書いてないんだよね。
でも、人に説明するときの入口は、
分かりやすく、コピーライターっていうことが多いかもね。
ーもともとは、何をしていたの?
元々は、雑誌とかのライターになりたかったんだよね。
取材をして記事を書いたり、コラムを書いたり、
エッセイを書くような、文章を書く人になりたかった。
でも、就職活動のときは出版社には受からなくて、
企業の広報誌や会社案内とかを作る
編集プロダクションに入ったんだよね。
そこで「エディター」(編集者)って書いてある
名刺をもらって。
その会社は、企業の広報物をつくる編集会社だったから、
クライアントがいるんだよね。
そこで企業の環境報告書とかを作っていたんだけど、
けっこう大手のクライアントが多くて、
仕事を覚えるという意味では、すごくいい経験になったよね。
で、そこの会社には、編集部門のほかに、
広告をつくる部門もあって、
ある日、そっちの部署の人に声をかけてもらって、
新聞広告の案出しをしてさ。そうしたら、
俺が見よう見まねで書いたコピーが選ばれちゃって、
それが産経新聞にカラーで載ったんだよ。
それまで経験したことない快感に近い喜びがあって、
そのとき、「コピーライターになりたい」って思ったね。
ーそこでコピーに目覚めたんだ。
それで、ちゃんとコピーの勉強がしたいと思って
コピーライターの養成講座に通ったあとに、
コピーライターの名刺も作ってもらったんだよ。
だけど所属は編集部門のままだったし、
やっぱり広告の仕事がしたいと思って、その会社を辞めて、
わりと大きな広告制作会社に移ったんだよね。
そこでは大手の広告代理店からくる仕事が中心で、
メジャー感もあったし、最初はすごく面白かったんだよ。
これが広告業界なんだって。
でもあるときから、代理店を挟むんじゃなくて、
前の会社でしていたように
直接クライアントと仕事をしたいと思い始めたんだよね。
仕事の規模は大きくなったんだけど、
お客さんから遠くなってしまった。でも、
そのときの自分にはそれを突破するだけの実力もないし、
なんだかすごくもどかしかったんだよね。
もっとコピーの力をつけたい、と強く思った。
そんな矢先に、たまたま友達の紹介で
広告業界では名前の知れたコピーライターの人に会って、
その人の事務所に入れることになったんだよ。
コピーライターとして一人前になりたいという
思いが強かったし、もう少しお客さんの近くで
仕事ができるんじゃないかと思ってワクワクしたね。
ー順風満帆じゃないですか。
でもそこが本当に地獄だった。
毎日夜中の12時くらいからコピーチェックが始まって、
コピーのダメ出しから、人間性まで否定されていく。
人を否定することで、自分を成り立たせているような人で、
コピーライターとしては優秀な人だから、
あらゆるロジックで追い詰めてくる。
それが毎日、毎日、朝の4時くらいまで続くんだよ。
自分でも、この状況をどう消化していいか分からなかったし、
こんなことでつまずいていることを、誰にも言えなかった。
ある日、もう限界だと思って、「今日で辞めます」と言って、
荷物をまとめて出て行ったんだよね。
もう、コピーライターを辞めようと思ってた。
それが28歳のとき。
ー大きな挫折だよね。
そうだね。
それまでの自信がぜんぶ粉々になっちゃった。
あまりにもデカい挫折すぎて、
いまだに心にフタができない自分がいる。
でも、それでも言葉は好きだったし、
そこを捨てると何もなくなっちゃう気がして、
言葉に関わる仕事を辞めるのは嫌だった。
そんなときに、ある先輩に「辞めました」って話したら、
「ウチに来るか」って言ってくれて。
そう言ってもらえるだけの力が
自分にはまだあるのかと思って、
もう一回やり直そうと思ったんだよね。
その会社は、紙媒体の広告だけじゃなくて、
WEBとか映像とかイベントとか、
いろんな広告を作っている制作会社で、
クライアントと直接やれる仕事も多かったんだよね。
そこに入社してすぐ、
あるアパレル会社のブランディングのコンペがあって、
そのコンペが獲れたんだよね。
嬉しかったのが、そのコンペを獲ったときに、
「コピーで選びました」って言われてさ。
コピーライターを辞めようとしてた人間なのに、
そういうふうに言ってもらえたのは嬉しかったよね。
それから4年間、そのクライアントのブランド戦略とか、
新しいブランドの立ち上げとかを全部やってたんだよね。
全体のクリエイティブを監督する
クリエイティブディレクター(CD)はいたけど、
途中からは俺がプチCD的にやるようになって。
ーチーママ的な。チーCDとして。
そう、チーCDとして(笑)
それは今の自分にもぴったりな気がする(笑)
全部で4ブランドを担当して、
クライアントと4年間みっちりやれたのは、
いまの仕事につながる大きな経験になったね。
ところが、いきなり、
自分のいた部署が解散になっちゃったんだよ。
ある日突然、会社から通達があって、
営業の部署に異動するか、会社を辞めるかの
選択を迫られて。衝撃だよね。
ーまさかの無職。波乱万丈すぎるでしょ。
子供もいるわ!ってね。
あわてて就職活動を始めて
いくつか人材紹介会社に登録したんだけど、
当時リーマンショックがあった頃(2008年)で、
ぜんぜん求人がなかったんだよ。
困ったなと思っていたら、
登録した人材紹介会社のひとつから、
「ウチに来ませんか」ってスカウトされたんだよね。
その会社の宣伝部で、
自社の広告やブランディングをするためにね。
前職の経験も活かせそうだったし、
なによりも働かなきゃいけなかったんで、
その人材紹介会社に入った。
人生で初めて、ネクタイ締めてスーツで会社に行く生活。
いままでずっと広告業界にいたのに、
とうとうクライアント側になっちゃった。
いままでは広告を作る側だったけど、
広告を出す側として、
まず社内で広告の予算を通さないといけない。
広告の戦略を作って、効果予測を立てて、
上司を説得しなければならない。
稟議書作って部長承認、役員承認、社長承認を経て
ようやく広告が作れるっていう。
経営層と直接打ち合わせしたり、プレゼンしたり、
ダメ出しされたり…。
経営者の視点で広告を捉え直す、すごくいい勉強になった。
ーいろいろと大変な目にあっているけど、
ひとつも無駄になっていないよね。
結果的にね。
ひとつひとつは望んだ道じゃなかったかもしれないけど、
あとから振り返ると、ぜんぶつながっているし、
ちゃんと自分の力になっているのかもね。
そう考えると本当に、無駄なことなんてひとつもないよね。
ー独立のきっかけは何だったの?
東北の震災の直後に、妻のお父さんが急病を患って、
59歳の若さで亡くなったんだよ。
59歳で死んじゃうのかって思ったら、
そのとき自分は30代半ばだったけど、
あと何年生きられるんだろうって。
俺って、結局何がしたかったんだっけって、
そう考えたら、人材紹介の会社にいるよりも、
やっぱり広告がやりたいって思ったんだよね。
それで、今までけっこう会社に振り回されたし、
「ひとりでやってみたい」って思ったんだよ。
やり方はまったく分からなかったけど、
自分の人生だし、やりたいことやらなきゃなって。
ーいま初めて「人生」って言葉が出てきたね。
人の死に直面して初めて、
「人生どうありたいか」って視点が生まれたのかもしれない。
で、いろんな人に会いに行ったりしたね。
転々としてた分、知り合いはけっこういたし、
一緒にやろうぜって声をかけてくれる人もいて。
突然解散しちゃった部署の仲間も、
独立して頑張ってる人が多かったし、
そういうのがひとつひとつ、自分の勇気になった。
ーここでも、それまでの道のりが活きているんだ。
それも、「結果的に」だけどね(笑)
それで、昔の編集系の人とか、
WEBの会社の人とか、広告だけじゃない、
いろんな業界の人に声をかけてもらっているうちに、
あるときは編集の仕事だったり、
あるときはWEBの企画の仕事だったり、
コピーライターの仕事だけじゃない、
いろいろな仕事が増えきたんだよね。
こないだ、お客さんと話しているときに、
「Mさんの肩書きって、『Mさん』ですよね」
って言われたんだよ。
そうか、俺はコピーライターじゃなくて、
「Mさん」でいいんだって気付いたんだよ。
ーそうか、自分の名前が肩書きなんだね。
うん、「結果的に」ね。