2013年の夏の日、
わたしは当時勤めていた広島のタウン情報誌の取材で、
ひとりのミュージシャンと出会った。
「やぁやぁ、ようこそお越しくださいました」
わたしの姿を確認するやいなや、
そう言って彼は握手を求めてきた。
わたしは反射的に手を伸ばして、握手に応じた。
「は、はじめまして。今日はお忙しいなか、
取材のお時間をとってくださってありがとうございます…」
まさか、取材相手にいきなり握手を求められるとは
思っていなかったので、動揺してしまい、
わたしは歯切れの悪い挨拶をした。
まずは笑顔で挨拶をして、名刺を渡して、
自分が所属している媒体の説明をしてから、
今回の記事の企画説明と、今日はどんな話を聞きたいのか
概要を簡潔に伝えたら、具体的な質問を始めよう…
当時、タウン誌の仕事に就いて2年以上が経っていたものの、
一向に取材慣れすることができずにいたわたしは、
その日の一連の流れを頭の中でシミュレーションしながら
取材現場に向かっていた。
出会い頭に予定していなかった握手が差し込まれたものの、
気を取り直してシミュレーション通りに取材をはじめようと
したそのとき、彼は突然、わたしに向かってこう言った。
「あなたの夢は何ですか?それって絶対に叶うんですよ。
もしも今、その夢が叶っていないのだとしたら、
それはあなたに熱意が足りないからだ」
頭の中が真っ白になった。
夢?わたしの夢…?熱意が足りない?
言葉に詰まり、質問に答えなければと考えを巡らせたが、
わたしが答えるのを待つより先に、彼は再び話しはじめた。
「ニューヨークまでスティーヴのライブを聴きに行きましてね、
そこで彼のマネージャーと知り合うことができたんですよ。
直接交渉する機会を得て、今回のライブを決めることができた」
この日の取材は、彼と、
世界的ドラマーであるスティーヴ・ガッドが、
2013年10月13日に広島県福山市のライブハウスで
ライブを行うことが決まっており、
その告知記事を制作するためのものだった。
我に返ったわたしは、記事を書くのに必要な情報を
聞き出すために、そのまま取材をはじめた。
彼の名前は、伊太地山伝兵衛(いたちやまでんべい)。
多いときで年間300本以上のライブを行う、
全国を旅するツアーミュージシャンだった。
2013年時点でミュージシャンとして30年以上のキャリアを持ち、
1994年には東芝EMIから『Wesが聴こえる』でメジャーデビュー。
しかし、デビューしてからも彼の主戦場は全国のライブハウスで、
各地に根強いファンを抱えてはいたものの、
世の中に広く知られている存在ではなかった。
一方、スティーヴ・ガッドとは、
ポール・サイモンやジェームス・テイラー、
エリック・クラプトンなど名だたるミュージシャンの
レコーディングやツアーに参加し、世界中のミュージシャンから
“ドラムの神様”と崇められる存在だ。
伝兵衛さんにとって、スティーヴ・ガッドとのライブは、
まぎれもなく「夢」だったのだろう。
伝兵衛さんが実現する特別なライブには、
スティーヴ・ガッドだけでなく、
井上陽水や山下達郎など多くのミュージシャンの作品に参加し、
日本有数のドラマーとして知られる村上“ポンタ”秀一と、
RCサクセションのライブやレコーディングをサポートした
経歴も持つ、ジャズピアニスト・佐山雅弘が迎えられていた。
2部制で構成された1枚15,000円するチケットは、
両公演ともにソールドアウト。
当日は伝兵衛さんのファンだけでなく、
伝兵衛さんと同じようにスティーヴ・ガッドに憧れた
音楽を愛する多くの人たちが会場を訪れ、
独特の熱気に包まれたままライブは開催された。
ひとりのミュージシャンの、夢が叶った瞬間だった。
その約1ヵ月後、2013年11月15日に、伝兵衛さんは亡くなった。
もともと腎臓病を患っていて、
人工透析を受けていたことを後から知ったが、
ほんの1ヵ月前、夢が叶って楽しそうに歌っていた人が、
こんな風に突然いなくなってしまう現実が信じられなかった。
あの日のライブは確かに特別だった。
でも、ライブが終わった後も、伝兵衛さんが亡くなって
5年以上が経った今でも思い出すのは、
伝兵衛さんにはじめて会った日に言われた、あの言葉だった。
あの時、なぜあんなことを言ったのか、
ご本人に直接聞くことはもうできないが、
伝兵衛さんの音楽活動に深く関わってきた人たちを訪ね、
あの日に見つけられなかった答えを探してみたいと思った。
伝兵衛さん、熱意って何ですか?
(つづきます)