スティーヴ・ガッドとのライブにしろ、
NHKホールでの50歳記念ライブにしろ、
伝兵衛さんが自ら描いた夢の実現のために、
ここまで貪欲に突き進むようになったのには
ひとつのきっかけがあるという。
「赤い鳥」のギタリスト・大村憲司さんの死だ。
70年代を中心に活躍したフォークグループ・赤い鳥。
いまや合唱曲の代名詞ともいえる『翼をください』は、
71年に赤い鳥が発売した『竹田の子守唄』のB面楽曲であり、
同グループを代表するヒットソングだ。
伝兵衛さんにとって大村憲司さんもまた、
憧れる存在のひとりだった。
そんな大村さんは、98年に病気で亡くなっている。
「大村さんが亡くなったときに伝兵衛さん、
『いつか大村さんと演奏したかったんだ』って話してました。
『無理でもいいから、一緒にやってくれって
一言声をかけたかった。そのうちって思いじゃダメなんだよね。
今、行動に移さないと。人は待ってくれない』って。
そのときからかな、やりたいことを口にして、
ストレートに努力するようになったのは」
石井さんは続ける。
「伝兵衛さん自身の体調のこともあったと思います。
大村さんが亡くなった前後で人工透析をはじめていますから、
普通の人とは時間の流れ方も違っていたと思うんですよ。
人は待ってくれないし、自分もいつまで元気でいられるか
わからないって気持ちがあったんでしょうね」
スティーヴ・ガッドとのライブを終えた後、
周囲の人たちは伝兵衛さんが死んでしまうのではないか、
とひそかに心配していたらしい。
あまりに大きな夢を実現させてしまったことで、
燃え尽きてしまうのではないかと危惧していたのだ。
しかし、こういった周りの反応に対して、
石井さんの考えは少し違っている。
「結果的にライブの1ヵ月後に亡くなってしまって、
亡くなった直接的な原因は敗血症だけど、
何が引き金になったのかは僕もよくわからないんです。
あの1日を実現するために何年も前から準備していたし、
相当なプレッシャーを抱えていたとは思うんですよ。
でも、亡くなる直前、
11月10日に大船で最後のライブをやったとき、
ライブ中にろれつが回らなくなるほど
体調は悪そうだったんだけれども、
帰りの車内で伝兵衛さんが、
『来年もスティーヴとやるから、
そのときは石井ちゃん、よろしくね』
って言ったんですよ。
だから、無気力にはなってないというか、
生きる気持ちはあったし、来年の希望も持っていた。
いつか365日ライブをやりたいっていう、
まだ実現してない目標もあったからね」
その一方で、伝兵衛さんの体調を
十分に気遣えていなかった部分もあったと話す。
「透析を15年もやっているとね、こっちもマヒするんですよ。
この人は病気とうまく付き合って、
長生きする人だと思っちゃうんです。
だから、だんだんと体の変化に気を遣わなくなって、
最後のライブの後、具合が悪くてひっくりかえっていたときも、
家に帰れば大丈夫だろうって思っていましたからね。
救急車で運ばれたと聞いて、
見舞いに行ったときはもう意識がなかった。
その次の日の夜に様態が急変して、
翌日15日の早朝に亡くなりました。
あっという間でしたね」
(つづきます)