もくじ
第1回あるミュージシャンの夢が叶った日 2019-03-19-Tue
第2回ツアーミュージシャンという生き方 2019-03-19-Tue
第3回考えるのは、どうしたら実現できるか 2019-03-19-Tue
第4回全国からファンが集う日 2019-03-19-Tue
第5回人は待ってくれない 2019-03-19-Tue
第6回あの日の答えを探しに 2019-03-19-Tue

88年生まれ。渋谷でライター・編集の仕事をしています。aikoのことが大好きです。

あるミュージシャンに教わった、</br>夢を叶えるために必要なもの

あるミュージシャンに教わった、
夢を叶えるために必要なもの

担当・フクオヨウコ

第2回 ツアーミュージシャンという生き方

1957年に大分県で生まれ、
慶応義塾大学を卒業した伝兵衛さんは、
地元で銀行員として働きながら音楽活動を行っていた。

銀行員とミュージシャン、というと、
銀行の仕事をするのは不本意で、
生活のためと割り切って働いていたのではないか、と
想像してしまったのはわたしの偏見だ。

伝兵衛さんは、銀行の仕事もやりがいを持って
取り組んでいたらしい。

「個人営業担当で、
おじいさんやおばあさんの話を聞くのが
仕事だったと言っていましたよ。
人の話を聞くのが得意な人だったからね。
でも、ちゃんと実績も出していたみたいで、
最高で約2憶円のお金を動かしたこともあるそうです」

そう話すのは、伝兵衛さんが亡くなるまで、
19年間ともに音楽活動を続けてきた
石井康二(いしいやすじ)さんだ。
出会った当時から伝兵衛さんは
年間120~130本のライブを行っており、
石井さんはベーシストとして
伝兵衛さん率いるバンド「伊太地山伝兵衛商会」に参加し、
一緒にツアーを回るようになった。

伝兵衛さんが銀行の仕事を辞めて、
音楽だけで生きていこうと決めたのは、27歳のときだ。
どうしても出たかったライブの日に仕事が重なってしまい、
仕事を理由に好きな音楽ができなくなるのも、
音楽を理由に仕事が嫌いになってしまうのも嫌だと考え、
音楽を選んだ。

多いときは年間300本以上のライブを行っていた、と
冒頭で書いたが、演奏ができる場所を見つけることも、
全国を渡り歩いてライブを続けることも、
決して簡単なことではない。

「たとえば、北海道ではじめてツアーをしようってなると、
まず、伝兵衛さんはひとりで北海道に行って、
店から店へと歌える場所を紹介してもらうんです。
2年くらいかけて、何度かひとりでまわった後に、
『次は仲間を連れてきていいですか』
と店主に聞いてから、はじめて僕らを連れて行く。
だから、僕が一緒に北海道に行くようになったのは、
伝兵衛さんが何度もひとりで歌いに行った後だった。
そうやって、お店との関係性を作っていくんです」

さらに、移動はすべて車だ。
“伝兵衛号”と呼ばれた楽器車(機材車)は、
年間5~10万キロの距離を走り、約2年で廃車となる。

「1番しんどかったのは、
福山でライブした翌日に八戸まで移動したときかな(笑)。
夜に出発して伝兵衛さんが東京まで運転して、
朝方僕にバトンタッチして青森まで行って、
その日の夜にライブをする。
なんでそんなスケジュールを組むんだって
思われるかもしれないけど、
ブッキングは必ずしも自分たちの都合だけで
決められるわけじゃないんです。
来てほしいって声をかけてもらえれば、
じゃあ行こうかって予定を入れることもある」

ライブをしてほしいと声がかかれば、
できる限り応えようと車を走らせた伝兵衛さんは、
歌う場所にもこだわらなかった。

地方の小さなライブハウスはもちろん、
音響設備が整っていないお店や施設もライブ会場となった。
床屋、風呂屋、おでん屋、焼き肉屋、お寺、
教会、橋の下、田んぼ……。橋の下と田んぼは、
当時58あった大分県の全市町村をめぐるツアーを行った際、
歌える場所がどうしても見つからず選んだそうだ。
田んぼライブのお客さんは、犬1匹だけだったという。

犬を前にしてライブすることに意味があるのかと
思うかもしれないが、田んぼでライブをしたその日も、
伝兵衛さんたちの帰りを待ってくれている人がいた。

近隣地域に住む、常連のお客さんだ。

伝兵衛さんのようなツアーミュージシャンを語る上で、
彼らを支えるお客さんの存在は欠かせない。

ツアーミュージシャンは全国を旅する中で、
節約のため、さまざまな場所で宿泊の交渉をする。
ライブをした店の中、マスターの家、そしてお客さんの家。
伝兵衛さんには亡くなる前、
大阪や広島、高松、福岡、宮崎など、
全国各地に泊まることができる家があったという。
お客さんの家を拠点に、隣県でライブをしては家に帰ってくる、
そんなやり方でツアーをまわることもあったそうだ。

「福岡でいつも泊めてもらっていたお家の奥さんは、
明太子が大の苦手な人なんです。
食べるのはおろか、触るのも見るのも嫌だってくらい
嫌いだって言っているのに、
伝兵衛さん、泊まるたびに奥さんに
『おいしい明太子ちょうだい』って言うんですよ。
『ごはんはやわらかめで炊いて』って(笑)。
でも、そうしたら奥さん、『えーーー』って言いながら、
ちゃんと用意してくれるんです、地元の上等な明太子を。
そんな風にね、甘えつくしていましたね。
いつでも帰っておいでって、
家の鍵まで渡してくれていましたから」

伝兵衛さんがお客さんとの関係の中で
築いてきた全国各地の“家”は、
伝兵衛さんが亡くなった後も、石井さんをはじめとした
後輩ミュージシャンの家であり続けている。
近くでライブをするから泊めてほしいと連絡を入れれば、
変わらず迎え入れてくれる場所があるのだ。

「なんで旅をしながらライブをやっているかというと、
伝兵衛さんも僕も、人と出会うためです。
元気な姿を見てもらって、文句を言ったり奢ってもらったり、
そういうのを肌で感じたいんですよ。
CDも作るけど、それはそのときの自分であって、
ライブではもっといいものをやりたいって思っているんです。
それを直接お客さんに聴いてもらいたい」

ツアーミュージシャンと彼らを支える人々の関係は、
深くて強い、という言葉では言い表せないような、
当事者だけが共有する確かな信頼の上に成り立っている。

(つづきます)

第3回 考えるのは、どうしたら実現できるか