04人は「演技」する。
- ──
- 原監督は、
ドキュメンタリーという表現法を通して、
何を描きたいと思っていますか。
- 原
- 人間の光と影、その二面性。
だいたい、どんな人だって、
わたしだって、あなただって、誰だって、
「ああ、人間ってこうだよなあ、いいな」
って思えるところと、
「いまのは、あんまり見たくなかったな。
ちょっとまずいよ」っていうところと、
ふたつの面があるじゃないですか。
- ──
- ええ。
- 原
- 基本的に、「人間を描く」ということが
ドキュメンタリーの仕事ですけど、
それには、光と影どっちかだけじゃなく、
両面を描く必要があると思います。
- ──
- 裏表がないという表現が、
褒め言葉として、よく使われますが‥‥。
- 原
- いないですよ、そんな人は。
光があって、影がありますよ。みんなね。
- ──
- 奥崎さんでさえも。
- 原
- 影だらけですけど、光もありましたよ。
- ──
- そう思われますか。
- 原
- だって、光があるから、
こっちも惹かれてしまったわけですよ。
ああ、苛烈な人だなあ、
映画にしたら、おもしろいだろうなと
わたしはともかく、
今村昌平にさえ思わせたのは、
奥崎さんの、まさに光の部分でしょう。
- ──
- よく言われることですが、
カメラの前で、人は「構えて」しまう、
もっと言うと「演じて」しまう、
そのことは
ドキュメンタリーという表現にとって、
どんな影響があると思いますか。
- 原
- どうもこうも、人って構えるもんでしょ?
カメラなんか向けられたら、誰だって。
- ──
- そこは、織り込み済みであると。
- 原
- 人は、どうしたって構えるもんだし、
いくら構えたって別にかまわないですよ。
「あ、この人、構えてる」ということは、
撮ってるわたしはもちろん、
映画の観客だって、簡単に見破りますよ。
- ──
- なるほど。
- 原
- 構えてるからウソだ、
構えているから真実じゃないじゃなくて、
いくら構えても、
その構えた顔の向こうに、
その人の本心や本音というようなものが、
いくらでも透けて見えるじゃないですか。
どうでもいいことなんです、そんなのは。
- ──
- それが「演技」となると、どうですか。
- 原
- 演技だって、観客は、そんな部分なんか、
簡単にひっぺがしますよ。
演技の奥に隠れよう隠れようとする
人間の心なんて、
やすやすと見破っちゃうと思います。
- ──
- 実際、映画のなかの奥崎さんを見ていても、
いまのは演技なんだろうなと‥‥。
- 原
- もう、最初っから最後まで「演技」です。
でも、人間は演技をするものであると、
はじめからわかっていれば、
「その人が、どういう演技をしているか」
が、カメラに映ればいいわけでね。
- ──
- ああ、なるほど。
- 原
- 奥崎さんは、
『ゆきゆきて、神軍』という映画のなかで
「神軍平等兵・奥崎謙三」
という役を最初から最後まで演じてました。
- ──
- はい。
- 原
- でも、実際の奥崎さんって、
中古の軽自動車とバッテリーを販売してる、
いわば「商売人」なわけですよ。
でも、その商売人をやっている自分なんて、
絶対に撮ってほしくないわけ。
- ──
- そうなんでしょうね。
- 原
- だって自分は、天下国家に向かって、
たった1人でケンカを売ってる神軍平等兵、
奥崎謙三という大人物なんだから。
映画のなかでも、
「奥崎謙三を演じることができるのは、
わたし奥崎謙三をおいて、
誰ひとり、いないのであります」
って、堂々と言ってますよ。
- ──
- 演じている自分こそ、撮ってほしいと。
- 原
- で、こっちも、そんなこと「百も承知」で、
そういう奥崎さんを撮ろうとしてるんです。
- ──
- ある意味で「おたがいさま」というか。
- 原
- そうそう、演じている奥崎さんを、
おもしろいなあと思って、撮ってるんです。
結局、わたしと奥崎さんと、
それぞれ抱いているイメージが合わさって、
神軍平等兵・奥崎謙三が、
画面のなかで、つくられているんですよね。
- ──
- おもしろいです。
- 原
- 奥崎さんは、なにせ映画の主人公だから、
どうしたって
カッコよくなきゃいけないんですけど、
こっちが「おもしろい」と思う部分とは、
乖離というか、温度差があります。
たとえば、映画のはじめのほうで、
奥崎さん、ケンカでやられちゃいますが、
あれ、主人公としちゃカッコ悪い。
- ──
- そうですね、少々。
- 原
- だから、やられちゃうのは想定外だけど、
でも、ケンカをしたのは、
自分のカッコよさを演出する演技ですよ。
で、こっちは、そういう部分に、
奥崎さんのおもしろさを感じるわけでね。
- ──
- はい。
- 原
- 奥崎さんっていう人は、
それほど「演じる人」だったと思います。
- ──
- ドキュメンタリーという手法にとっては、
「それでかまわない」んですね。
- 原
- なぜならばね、人間はカメラを向けると、
かならず構えるし、
ときに演技さえするものであるというのが、
わたしたちの、
人間理解の出発点であり到達点だからです。
つまりね、わたしらがつくるものの前では、
そんなこと、何の害にもならない。
- ──
- ちなみに、
作家の井上光晴さんの晩年に密着した
『全身小説家』では、
演技という以上の「ウソ」が、
ひとつのテーマに、なっていましたが‥‥。
- 原
- ええ、はい、ウソ‥‥そうですね、
厳密に言えば、ウソって、
あの作品のテーマになってる「虚構」とは、
ちがうものだと思いますがね。
- ──
- ええ。
- 原
- 虚構とは何か‥‥っていうことについては、
まさにその、おっしゃる、
井上光晴さんに教えてもらったことですね。
<つづきます>
2018-04-30-MON