ほぼ日刊イトイ新聞

C・シルヴェスター編『THE INTERVIEW』
(1993年刊)によれば、
読みものとしての「インタビュー」は
「130年ほど前」に「発明された」。
でも「ひとびとの営み」としての
インタビューなら、もっと昔の大昔から、
行われていたはずです。
弟子が師に、夫が妻に、友だち同士で。
誰かの話を聞くのって、
どうしてあんなに、おもしろいんだろう。
インタビューって、いったい何だろう。
尊敬する先達に、教えていただきます。
メディアや文章に関わる人だけじゃなく、
誰にとっても、何かのヒントが
見つかったらいいなと思います。
なぜならインタビューって、
ふだん誰もが、やっていることだから。
不定期連載、担当は「ほぼ日」奥野です。

原一男さんのプロフィール

原一男(はら・かずお)

1945年6月、山口県宇部市生まれ。
東京綜合写真専門学校中退後、養護学校の介助職員を
勤めながら、障害児の世界にのめり込み、
写真展「ばかにすンな」を開催。
72年、小林佐智子とともに疾走プロダクションを設立。
同年、障害者と健常者の「関係性の変革」をテーマにした
ドキュメンタリー映画『さようならCP』で監督デビュー。
74年、原を捨てて沖縄に移住した元妻・武田美由紀の
自力出産を記録した『極私的エロス・恋歌1974』を発表。
セルフ・ドキュメンタリーの先駆的作品として
高い評価を得る。
87年、元日本兵・奥崎謙三が
上官の戦争責任を過激に追究する『ゆきゆきて、神軍』を発表。
大ヒットし、日本映画監督協会新人賞、
ベルリン映画祭カリガリ賞、
パリ国際ドキュメンタリー映画祭グランプリなどを受賞。
94年、小説家・井上光晴の虚実に迫る『全身小説家』を発表。
キネマ旬報ベストテン日本映画第1位を獲得。
05年、ひとりの人生を4人の女優が演じる初の劇映画
『またの日の知華』を発表。
後進の育成にも力を注ぎ、
これまで日本映画学校(現・日本映画大学)、早稲田大学、
大阪芸術大学などで教鞭を取ったほか、
映画を学ぶ自らの私塾「CINEMA塾」を
不定期に開催している。
寡作ながら、公開された作品はいずれも高い評価を得ており、
ブエノスアイレス、モントリオール、シェフィールド、
アムステルダムなど、各地の国際映画祭で
レトロスペクティブが開催されている。
もっとも新しい作品に、取材に8年、編集に2年を費やした
『ニッポン国vs泉南石綿村』がある。
『ニッポン国vs泉南石綿村』公式サイトは、こちら。
http://docudocu.jp/ishiwata/

映画『ニッポン国VS泉南石綿村』
ユーロスペース他全国順次公開中

監督:原一男
製作:小林佐智子
構成:小林佐智子 編集:秦 岳志  整音:小川 武
音楽:柳下 美恵 制作:島野千尋 
イラストレーション:南奈央子
助成:大阪芸術大学 芸術研究所 JSPS科研費
製作・配給:疾走プロダクション
配給協力:太秦 宣伝協力:スリーピン

04
人は「演技」する。

──
原監督は、
ドキュメンタリーという表現法を通して、
何を描きたいと思っていますか。
人間の光と影、その二面性。

だいたい、どんな人だって、
わたしだって、あなただって、誰だって、
「ああ、人間ってこうだよなあ、いいな」
って思えるところと、
「いまのは、あんまり見たくなかったな。
 ちょっとまずいよ」っていうところと、
ふたつの面があるじゃないですか。
──
ええ。
基本的に、「人間を描く」ということが
ドキュメンタリーの仕事ですけど、
それには、光と影どっちかだけじゃなく、
両面を描く必要があると思います。
──
裏表がないという表現が、
褒め言葉として、よく使われますが‥‥。
いないですよ、そんな人は。
光があって、影がありますよ。みんなね。
──
奥崎さんでさえも。
影だらけですけど、光もありましたよ。
──
そう思われますか。
だって、光があるから、
こっちも惹かれてしまったわけですよ。

ああ、苛烈な人だなあ、
映画にしたら、おもしろいだろうなと
わたしはともかく、
今村昌平にさえ思わせたのは、
奥崎さんの、まさに光の部分でしょう。
──
よく言われることですが、
カメラの前で、人は「構えて」しまう、
もっと言うと「演じて」しまう、
そのことは
ドキュメンタリーという表現にとって、
どんな影響があると思いますか。
どうもこうも、人って構えるもんでしょ?
カメラなんか向けられたら、誰だって。
──
そこは、織り込み済みであると。
人は、どうしたって構えるもんだし、
いくら構えたって別にかまわないですよ。

「あ、この人、構えてる」ということは、
撮ってるわたしはもちろん、
映画の観客だって、簡単に見破りますよ。
──
なるほど。
構えてるからウソだ、
構えているから真実じゃないじゃなくて、
いくら構えても、
その構えた顔の向こうに、
その人の本心や本音というようなものが、
いくらでも透けて見えるじゃないですか。

どうでもいいことなんです、そんなのは。
──
それが「演技」となると、どうですか。
演技だって、観客は、そんな部分なんか、
簡単にひっぺがしますよ。

演技の奥に隠れよう隠れようとする
人間の心なんて、
やすやすと見破っちゃうと思います。
──
実際、映画のなかの奥崎さんを見ていても、
いまのは演技なんだろうなと‥‥。
もう、最初っから最後まで「演技」です。

でも、人間は演技をするものであると、
はじめからわかっていれば、
「その人が、どういう演技をしているか」
が、カメラに映ればいいわけでね。
──
ああ、なるほど。
奥崎さんは、
『ゆきゆきて、神軍』という映画のなかで
「神軍平等兵・奥崎謙三」
という役を最初から最後まで演じてました。
──
はい。
でも、実際の奥崎さんって、
中古の軽自動車とバッテリーを販売してる、
いわば「商売人」なわけですよ。

でも、その商売人をやっている自分なんて、
絶対に撮ってほしくないわけ。
──
そうなんでしょうね。
だって自分は、天下国家に向かって、
たった1人でケンカを売ってる神軍平等兵、
奥崎謙三という大人物なんだから。

映画のなかでも、
「奥崎謙三を演じることができるのは、
 わたし奥崎謙三をおいて、
 誰ひとり、いないのであります」
って、堂々と言ってますよ。
──
演じている自分こそ、撮ってほしいと。
で、こっちも、そんなこと「百も承知」で、
そういう奥崎さんを撮ろうとしてるんです。
──
ある意味で「おたがいさま」というか。
そうそう、演じている奥崎さんを、
おもしろいなあと思って、撮ってるんです。

結局、わたしと奥崎さんと、
それぞれ抱いているイメージが合わさって、
神軍平等兵・奥崎謙三が、
画面のなかで、つくられているんですよね。
──
おもしろいです。
奥崎さんは、なにせ映画の主人公だから、
どうしたって
カッコよくなきゃいけないんですけど、
こっちが「おもしろい」と思う部分とは、
乖離というか、温度差があります。

たとえば、映画のはじめのほうで、
奥崎さん、ケンカでやられちゃいますが、
あれ、主人公としちゃカッコ悪い。
──
そうですね、少々。
だから、やられちゃうのは想定外だけど、
でも、ケンカをしたのは、
自分のカッコよさを演出する演技ですよ。

で、こっちは、そういう部分に、
奥崎さんのおもしろさを感じるわけでね。
──
はい。
奥崎さんっていう人は、
それほど「演じる人」だったと思います。
──
ドキュメンタリーという手法にとっては、
「それでかまわない」んですね。
なぜならばね、人間はカメラを向けると、
かならず構えるし、
ときに演技さえするものであるというのが、
わたしたちの、
人間理解の出発点であり到達点だからです。

つまりね、わたしらがつくるものの前では、
そんなこと、何の害にもならない。
──
ちなみに、
作家の井上光晴さんの晩年に密着した
『全身小説家』では、
演技という以上の「ウソ」が、
ひとつのテーマに、なっていましたが‥‥。
ええ、はい、ウソ‥‥そうですね、
厳密に言えば、ウソって、
あの作品のテーマになってる「虚構」とは、
ちがうものだと思いますがね。
──
ええ。
虚構とは何か‥‥っていうことについては、
まさにその、おっしゃる、
井上光晴さんに教えてもらったことですね。

<つづきます>

2018-04-30-MON