HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN

毎日、トラックで靴を運びながら
夢見たロンドンで、
スタイリストのかっこよさを知る。

数多くのミュージシャンや俳優から
信頼されている
スタイリストの宮島尊弘さんは、
洋服のことも、
スタイリストという仕事のことも、
まるで興味がなかったそうです。
でも、憧れの街ロンドンで、
スタイリストのかっこよさを知った。
専門学校卒業後、古着屋の店員や
トラックの運転手を経て、
今の宮島さんになるまでの道のりを、
お話くださいました。
以前の職場で
よくお仕事をごいっしょしていた、
「ほぼ日」の奥野が担当です。

3

そしてトラックドライバーに。

オーディオが置かれた部屋の画像
――
トラック運転手さんになった理由って、
つまりは、お金の問題で。
宮島
洋服屋店員の時給何百円にくらべたら、
まあ、よかったからね。
――
でも、トラック運転手さんというのは、
そんな急になれるものですか。
宮島
当時は4トンまでは普通免許だったし、
今とは事情がちがったんだよね。

もちろん、
長距離トラックの運転手みたいな
ハードコアな世界じゃなく、
実家の埼玉の春日部から浅草まで、
毎日、靴を運んでただけだけど。
――
デコトラみたいなのに乗ってたんでは。
宮島
ちがうちがう(笑)。
――
天井にシャンデリアがぶら下がってて、
背後に神棚が据え付けられていて‥‥。
宮島
シートが別珍の朱(あか)で、
シフトレバーの先っちょの
クリアの玉ん中に金魚が泳いでる‥‥
みたいなのとは、ちがうよ。

それの、やや「軽い版」って感じ。
――
あ、ちょっとは、その「風味」が。
宮島
ああいうトラックに乗ってると、
どうしても
プシュプシューって、
エアブレーキ効かせたくなったり、
無線で
「38番宮島でぇす。プップー!」
みたいな気持ちになるんだよ。

ふしぎだよね。
宮島尊弘さん画像
――
運転手さんは、どれくらいの期間?
宮島
2年。
――
それは、お金が貯まるまで。
宮島
そう。青春時代を2年、費やした。

ロンドンへ行く金を貯めるために、
毎日、大量の靴を運んでは、
浅草のおばちゃんから
リポ(ビタン)Dを貰うっていう、
そういう2年間だった。
――
毎日毎日、靴ばかり、2年間も。
靴って、そんなにあるもんですか。
宮島
あるよ、あるある。

靴って言えば浅草だし、
そこら中の靴屋から集めてきた靴を、
全国に流すわけだから、
2トン車、4トン車に満タン積んで。
――
ロンドンを夢見て、靴を運ぶ毎日。
宮島
そう。よけいな話だけど、
荷物の積みかたにはコツがあって、
素人が適当にやっちゃうと、
坂道発進とかで、
めちゃくちゃ崩れて最悪なんだよ。
――
そうなんですか。
宮島
積み込むときには、
品番ごとにわけたりするんだけど、
そういうのが、
一発でグチャグチャになっちゃう。
箱だって潰れちゃうし。

だから、ヤマトだとか佐川の人も、
あれ、
適当に積み込んでるように見えて、
いぶし銀の職人技だからね。
――
じゃ、そういう技術も身につけて。
宮島
うん、2年くらい真面目にやって、
ようやくお金が貯まった。

長いなあ、ようやくロンドンだよ。
――
それは、何しに行かれたんですか。
一言でいうと、ロンドンには。
宮島
かたちとしては、語学学校だけど、
何をしにってことでもなく、
ロンドンに行くってことがしたい、
っていうような、そういうこと。

ロンドンに触れたいってことだね。
――
なるほど。
宮島
でも、合計2年行ってたんだけど、
最初の1年は、街をただ歩いたり、
好きなバンドのライブに行ったり、
クラブで遊んだりしてただけ。

でも、ちょうど1年くらい経って、
トラックで稼いだお金が
底をつきそうになってきたんで、
それからは、
日本食レストランとかで
バイトをしながら稼いで生きてた。
――
そうなんですね。
宮島
ロンドンへ行く前から、
ナム・ジュン・パイクとか
三上晴子とかの「前衛アート」が
好きだったんだけど、
ロンドンで暮らすうちに、
周囲のイケてるやつらが通ってる
アートスクールに、
俺も行きたいと思うようになった。
――
語学学校じゃなく。
宮島
でも、もちろんそんなお金もなく。

で、そんなことやってるうちに
「ジュディ・ブレイム」っていう、
雑誌の「i-D」とかやってた
有名なスタイリストを知るんです。
――
ええ、なるほど。
宮島
そこではじめて‥‥俺は、
スタイリストってのにピンと来た。
――
来ましたか!
宮島
来た。

そのジュディ・ブレイムって人は、
カムデンマーケットとか、
ノッティングヒルのマーケットに、
店を出してたんだけど、
そこでは、
クリストファー・ネメスとか
セディショナリーズとか、
ああいうブランドの服を出してて、
めちゃくちゃかっこよかった。
――
目覚めたんですね‥‥!
宮島
ジュディ・ブレイムの職業を聞けば
「スタイリストだ」と。

スタイリストってかっこいいんだな、
みたいな、いまさら。
スタイリストの学科を出てるのに、
ようやく、
スタイリストって仕事にピンと来た。
宮島尊弘さん画像
――
ロンドンのフリマの会場で。
宮島
で、「この人の手伝いをしたい」と、
思ったんだけど、
いよいよお金も底を尽きちゃって。

で、しょうがなく日本に帰ってきた。
――
スタイリストに目覚めた状態で帰国。
宮島
帰ってきたら帰ってきたで、
最後の方、本当にお金がなかったら、
超痩せてて、ガリガリで、
スキンヘッドで
顔中ピアスだらけで、
見た目がもう、ヤバすぎるんだよね。
――
それは、23歳とかですか。
宮島
いやいや、もっといってる。
帰ってきたときは25か26だった。

春日部の親からも、
「あんた、しばらくは外に出ないで」
みたいに言われて、
一週間くらい実家の奥に引き籠って。
――
じゃ、お仕事は‥‥。
宮島
ま、いろいろと‥‥
本当にいろいろバイト面接を受けて、
ことごとく、何ひとつ、不合格。

もう俺、いよいよやべぇなってとき、
代官山をフラついてたら、
電信柱に
「スタイリストのアシスタント募集」
って貼り紙を見つけたの。
――
貼り紙‥‥ですか。
宮島
そこに日給8000円と書いてある。

こりゃいいやと思って面接に行って、
いま思えばウソなんだけど(笑)、
俺はまんまと引っかかって、
あるスタイリストの、
アシスタントってのになったんです。
――
じゃ、その人が「師匠」なんですか。
宮島
結局、ゴハン代は出してくれたけど、
給料はゼロだったんで、
半年くらいで、
自分の仕事をはじめたんだよね。
――
でも、そんなすぐに、お仕事‥‥。
宮島
アシスタントの時代は、
金がなかったり、
まあ、いろいろ大変だったんだけど、
唯一ラッキーだったのが、
その師匠と事務所をシェアしていた
デザイン事務所があって、
彼らが俺に、仕事を振ってくれたの。
――
おお。
宮島
まだデビュー前のバンドなんだけど、
やってみないかって。

俺もはじめての仕事だったし、
もちろん「やらせてください」って。
――
ええ。
宮島
それが、Dragon Ash だった。
宮島尊弘さん画像
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