もくじ
第1回3代目継承問題 2016-12-06-Tue
第2回木曽漆器について教えてください! 2016-12-06-Tue
第3回産地としての取り組み 2016-12-06-Tue
第4回伝統に新風を 2016-12-06-Tue
第5回後継ぎは恵まれている 2016-12-06-Tue
第6回やりたいことをやっているだけ 2016-12-06-Tue
第7回最後に 2016-12-06-Tue

1983年長野県生まれ。
祖父が創業した会社に入り、ゆくゆくは3代目を襲名する予定です。

伝統を継ぐこと

伝統を継ぐこと

担当・miyahara

第2回 木曽漆器について教えてください!

木曽漆器のことをもっとよく知ろうと
塩尻・木曽地域地場産業振興センターの
専務理事兼事務局長である
武井祥司さんにお話をお伺いしました。


武井祥司さん

──
今日はよろしくお願いいたします。
miyaharaと申します。
今年の4月から実家の仕事を手伝うようになりました。
まだまだ不勉強なもので、本日は木曽漆器の基本を
教えていただきたくてやってきました。
武井さん
木曽漆器の情報はどんどん出したいと思ってます。
なんでも聞いてください。
──
ありがとうございます。
いきなりですが、まず木曽平沢で漆器が
作られるようになったのはいつ頃なんですか?
武井さん
木曽漆器の発祥については諸説あります。
その中の一つ、古文書の中に
「木曽平沢の諏訪神社に火を放って、
朱塗りの社殿が燃え上がった」
という一節があることから、天正以前すでに
漆塗りが行われていたと言われています。
──
そんなに昔から漆塗りの文化が
木曽平沢にあったかもしれないということですか。
武井さん
古文書の一節から推測したものなので、
本当のところはわかりません。
村史に記載されている起源としては
慶長12年(1607年)以前より隣の地区の奈良井で
白木細工という木工製品が作られていて、
それに漆を施すようになったということです。
──
なぜ木曽平沢は漆器の産地として栄えたのでしょうか?
武井さん
まずは森林資源ですね。
やはり一番は良質なヒノキが取れることでしょう。
木曽ヒノキといえば、ヒノキの中でも人気のあるブランドです。
木曽地方は寒い為、ヒノキの生育が遅いのですが、
その分目が細く、締まった木に成長するんです。
他にも木曽五木と呼ばれる名木や、その他多くの木が取れます。
──
これだけ山に囲まれている地域ですもんね。
島崎藤村も「木曽路は全て山の中にある」と書くくらい。
武井さん
そうなんです。次に気候。
漆は湿気で乾くので、適度な湿度が必要です。
そして木曽平沢は、海抜900mという高地で
夏は涼しく、冬はとても寒い。
この独特な気候が漆を塗る環境に適していたんですね。
また江戸時代の街道文化で物流があったので
栄えていったということです。 
木曽平沢は中山道の一部だったので
中山道を行き交う人々の間で漆器が評判になり、
江戸の後期頃には漆器といえば、
平沢と言われるまで広く知られていたようです。
──
江戸時代にはそんなに有名だったんですね!
武井さん
そうなんです。また明治になると奈良井で
「錆土(さびつち)」という鉄分を多く含む
下地素材が取れたので、下地塗りの
新たな技法が考案されました。
そのため硬くて良質な漆器が
作れるようになったんです。
──
日本全国に漆器の産地は多いと思うのですが、
木曽漆器は全国的に見るとどのくらいの規模なんですか?
武井さん
産地それぞれの特徴があるため、
順位は付けられませんが、
全国有数の産地であることに間違いありません。
──
木曽漆器の特徴とはなんでしょうか。
武井さん
錆土を使った、堅くて丈夫な堅地漆器ということや、
木曽漆器独特の木曽春慶・呂色塗・堆朱塗の技法です。
このことから、国の伝統的工芸品として産地指定も受けています。
──
一時期、木曽漆器の大ブームというか、
売れている時期があったと祖父から聞いたことがあるのですが、
それはなんだったんでしょうか。
武井さん
戦後、料亭や旅館などで使われる宗和膳等、
業務用の漆器需要が高まり、かなりの量を作ったんです。
それから木曽平沢は業務用が得意となりました。
そのあと、座卓や漆の家具が高度成長と一緒に需要が伸びてきたんです。
──
それが、木曽漆器のブームだったんですね。
武井さん
はい。しかし、そのうちに住宅事情が変わっていきました。
和室が少なくなり、大きい座卓は使わなくなった。
こたつも減ってきて、こたつ板も売れない。
小物を作るようにもなってきたけれども、
社会経済が落ち込む傾向になり、高い伝統工芸品は売れない。
また、消費者の選択肢も増え、家具も食器も
安く買えるようになったことから、今は売り上げが
鈍っています。
──
なるほど…。
武井さん
漆器が売れなくなると、木工屋さんの仕事がなくなり
塗師屋さんが減る。そうやって伝統工芸に携わる人が
減ってしまっているのが現実です。この傾向は、
全国の多くの伝統工芸品業界に言えることです。
──
今、木曽平沢で漆器業に従事している人は
どれくらいいるんですか?
武井さん
漆器組合の組合員数は2016年の4月時点で
127企業です。これはピーク時の半分以下です。
──
半分以下…。それは寂しいですね。
武井さん
多い時期は250企業以上ありました。
──
後継者が育たないということですか?
武井さん
漆器屋は経済の低迷と共に減っていき、
漆器を家業としている親が子供に継がせることが
できなくなってきているんです。責任を持って
「この仕事はいいぞ。食っていけるぞ」と言えず、
「苦労は自分だけでいい」と思っている人が
多いのかもしれません。売れないなら勤めに出た方が
いいという話になってしまうんでしょうね。
今の50代、60代の従事者は、
当時は商売として成り立っていたことから、
家業を継ぐことが当然といった気風がありましたが、
現在の木曽平沢の漆器業界の現状では継ぐのも大変だ、
ということでしょうか。

産業の衰退は私の家だけではなく、地域全体の課題だったようです。
この問題に対し、地域としてはどう取り組んでいるのでしょうか。

(つづきます)

第3回 産地としての取り組み