カメラに乗って旅をしてきた。操上和美さんと糸井重里の、いい時間。

第02回 写真家になれば旅ができる。

糸井
操上さんって、まだ子どものうちから
カメラがやりたかったんですか?
操上
いや、カメラマンになろうとしたのは、
ずっと後になってからですよ。
糸井
もともと「牧場」ですもんね。
操上
そう、北海道で農業やってましたから。
で、24歳で、写真学校へ行ってね。
糸井
そういう意味では「オクテ」ですよね。
操上
オクテもオクテ、超オクテですよ。
「遅れてきた少年」って感じ。
糸井
でも、24歳ですか。そう聞くとすごいな。
操上
だって、24歳の春、青函連絡船に乗ってさ、
はじめて本州に渡ったんだから。

弟がこっちの大学へ通っていたもんで、
写真学校を探してもらって。
24歳なんて、
大学に入学してる場合じゃないでしょ。
糸井
とっくに卒業してる歳ですよ。
操上
で、当時いちばん写真理論に強かった
重森弘淹(しげもりこうえん)さんの学校が、
何だか、おもしろいらしいみたいだと。
糸井
あ、その知識はあったんですか。
操上
いや、その弟に調べてもらったわけ。
大学でこっち来てた、弟にね。
糸井
じゃあ、24歳の操上青年は、
重森さんが誰であるかも知らなかったんだ。

おもしろいなあ、そのあたり。
写真
操上
これから写真をはじめるわけだし、
ふつうのつるつるした学校じゃダメだから、
おもしろいとこ探せって言ってね。

「俺が大学へ入れてやったんだから」って。
糸井
あ、そうなんですか。
操上
うん、きょうだいのなかで兄貴と俺が
下の弟たちを学校へ行かせるために、
ずっと、農業ではたらいてたんですよ。

で、みんなを大学へやり終えたとき
「このまんまだと
 俺、一生ここから出られねえなあ」
と、ふと思って。
糸井
それで、写真の道に。
操上
当時、ロバート・キャパの戦争写真を
雑誌で見てたりしたんです。
糸井
ええ、その時代ですよね。
操上
「いやあ、戦争の写真ってすごいなあ」
ってことと、
「写真家になったら
 いろんなところへ旅ができるんだな」
ってことの、ふたつを思った。
糸井
なるほど。
操上
とまぁ、そんなことがあって、
写真学校へ2年、そのあとは雑誌社で。
糸井
最初は雑誌だったんですか。
操上
そう、『住まいと暮らしの画報』っていう、
総合雑誌の会社に就職した。
料理も、建築も、ファッションも載ってる、
婦人向けの総合雑誌なんだけど。
糸井
知らなかった。
操上
当時、その雑誌では
「いい企画やアイディアを思いついたら
 自分で取材してきていい」
というね、
新人でも「素人扱い」しなかったんです。
糸井
アイディアを企画にして、取材へ行って‥‥。
操上
話を聞いて写真を撮って、編集する。
糸井
若いし、楽しかったでしょう。
操上
でもね、当時の編集長が
「この写真は、別にいらないな」とか、
「ここは、こんなんじゃダメだ」とか、
いろいろ言ってくるわけ。

俺、それが気に入らなくなっちゃって、
「辞めるわ」って。
写真
糸井
編集長としてみたら、若い操上さんを
かわいがってたんじゃないですか?
操上
うん、かわいがられたんだけども、
ぜんぜん意見が合わない。

それで辞表をパッと出したら、局長が、
「お前、やめとけ。
 あと1カ月でボーナスが出るぞ」と。
糸井
あ、それは、若者には大きいですよね。
親切な局長ですね(笑)。
操上
でも、俺はさ、
「いや、冗談じゃないですよ」って。

「男が1回、辞めると言ったのを
 ボーナスが出るからって前言撤回して
 あと1カ月いる?
 俺、そんな男じゃないから」って。
糸井
おお(笑)。で、局長さんは?
操上
ただ「このバカやろう」って言ってた。
結局、ボーナスもらわずに辞めました。
糸井
広告へ行ったのは、そのあとですか。
操上
その雑誌社を紹介してくれた
玉田顕一郎って人が、
まだ『コマーシャル・フォト』を
立ち上げたばかりのころでね。

玉田さんって人は、重森さんと一緒に
東京総合写真専門学校をはじめた人だけど、
彼の紹介で仕事をしてたら
「お前、広告写真やってみないか」って。
糸井
へえ。
操上
サントリーの『洋酒天国』っていう‥‥。
糸井
ええ、PR雑誌ですよね。
操上
そこで撮ってた杉木直也さんが
めちゃくちゃポートレイトうまくてさ。

開高健さんが
ウィスキーのグラスを持ってる写真とか、
「いいなあ」って、ずっと思ってた。
そんなときに
杉木直也さんが西尾さんと組んで、
広告写真のスタジオをつくるって聞いて‥‥。
糸井
コピーライターの西尾忠久さん。
操上
そう。「勉強になるぞ、お前」と言われて、
「じゃあ、行きます」って。

それからですよ、
原宿のセントラルアパートのあたりを
ウロウロするようになったのは。
糸井
それ、おいくつくらいのときですか?
操上
27くらいかなあ。
糸井
え、ものすごいスピードですね。
スタートは遅かったのに。
操上
そうだね、いま思えばね。

で、そのセントラルスタジオって会社に
みんなで集まって、
白木屋の広告を一手に引き受けてた。
ずいぶん、勉強させてもらったな。
糸井
若い人たちの新しいアイディアを
どんどん
引っ張り上げてくれたところなんですね。
操上
そうだね、そういうところでした。

写真だけじゃなく、コピーとか、
広告のつくりかた全体を勉強できたし。
糸井
そうですか。
操上
だから、そのときの経験があったから
フリーになったとき、
TVコマーシャルの企画から演出まで
ぜんぶ、自分でやれたんです。
写真
糸井
そうだったんですね。
おおもとは、セントラルスタジオですか。
操上
うん。
糸井
じゃあ、ロバート・キャパの戦争写真から
はじまって、
まずは雑誌で、それから広告に移ったんだ。
操上
俺は、別に「戦争写真家になりたい」って
思ってたわけじゃなくて、
とにかく最初は、
キャパの写真の魅力に、魅かれたんだよ。

同時に「写真家になれば旅ができる」と。
糸井
ようするに、
大きく言うと「旅」だったんですね。
操上
そう、北海道から出ることも含めて。

<続きます>