- 糸井
- 操上さんって、まだ子どものうちから
カメラがやりたかったんですか?
- 操上
- いや、カメラマンになろうとしたのは、
ずっと後になってからですよ。
- 糸井
- もともと「牧場」ですもんね。
- 操上
- そう、北海道で農業やってましたから。
で、24歳で、写真学校へ行ってね。
- 糸井
- そういう意味では「オクテ」ですよね。
- 操上
- オクテもオクテ、超オクテですよ。
「遅れてきた少年」って感じ。
- 糸井
- でも、24歳ですか。そう聞くとすごいな。
- 操上
- だって、24歳の春、青函連絡船に乗ってさ、
はじめて本州に渡ったんだから。
弟がこっちの大学へ通っていたもんで、
写真学校を探してもらって。
24歳なんて、
大学に入学してる場合じゃないでしょ。
- 糸井
- とっくに卒業してる歳ですよ。
- 操上
- で、当時いちばん写真理論に強かった
重森弘淹(しげもりこうえん)さんの学校が、
何だか、おもしろいらしいみたいだと。
- 糸井
- あ、その知識はあったんですか。
- 操上
- いや、その弟に調べてもらったわけ。
大学でこっち来てた、弟にね。
- 糸井
- じゃあ、24歳の操上青年は、
重森さんが誰であるかも知らなかったんだ。
おもしろいなあ、そのあたり。
- 操上
- これから写真をはじめるわけだし、
ふつうのつるつるした学校じゃダメだから、
おもしろいとこ探せって言ってね。
「俺が大学へ入れてやったんだから」って。
- 糸井
- あ、そうなんですか。
- 操上
- うん、きょうだいのなかで兄貴と俺が
下の弟たちを学校へ行かせるために、
ずっと、農業ではたらいてたんですよ。
で、みんなを大学へやり終えたとき
「このまんまだと
俺、一生ここから出られねえなあ」
と、ふと思って。
- 糸井
- それで、写真の道に。
- 操上
- 当時、ロバート・キャパの戦争写真を
雑誌で見てたりしたんです。
- 糸井
- ええ、その時代ですよね。
- 操上
- 「いやあ、戦争の写真ってすごいなあ」
ってことと、
「写真家になったら
いろんなところへ旅ができるんだな」
ってことの、ふたつを思った。
- 糸井
- なるほど。
- 操上
- とまぁ、そんなことがあって、
写真学校へ2年、そのあとは雑誌社で。
- 糸井
- 最初は雑誌だったんですか。
- 操上
- そう、『住まいと暮らしの画報』っていう、
総合雑誌の会社に就職した。
料理も、建築も、ファッションも載ってる、
婦人向けの総合雑誌なんだけど。
- 糸井
- 知らなかった。
- 操上
- 当時、その雑誌では
「いい企画やアイディアを思いついたら
自分で取材してきていい」
というね、
新人でも「素人扱い」しなかったんです。
- 糸井
- アイディアを企画にして、取材へ行って‥‥。
- 操上
- 話を聞いて写真を撮って、編集する。
- 糸井
- 若いし、楽しかったでしょう。
- 操上
- でもね、当時の編集長が
「この写真は、別にいらないな」とか、
「ここは、こんなんじゃダメだ」とか、
いろいろ言ってくるわけ。
俺、それが気に入らなくなっちゃって、
「辞めるわ」って。
- 糸井
- 編集長としてみたら、若い操上さんを
かわいがってたんじゃないですか?
- 操上
- うん、かわいがられたんだけども、
ぜんぜん意見が合わない。
それで辞表をパッと出したら、局長が、
「お前、やめとけ。
あと1カ月でボーナスが出るぞ」と。
- 糸井
- あ、それは、若者には大きいですよね。
親切な局長ですね(笑)。
- 操上
- でも、俺はさ、
「いや、冗談じゃないですよ」って。
「男が1回、辞めると言ったのを
ボーナスが出るからって前言撤回して
あと1カ月いる?
俺、そんな男じゃないから」って。
- 糸井
- おお(笑)。で、局長さんは?
- 操上
- ただ「このバカやろう」って言ってた。
結局、ボーナスもらわずに辞めました。
- 糸井
- 広告へ行ったのは、そのあとですか。
- 操上
- その雑誌社を紹介してくれた
玉田顕一郎って人が、
まだ『コマーシャル・フォト』を
立ち上げたばかりのころでね。
玉田さんって人は、重森さんと一緒に
東京総合写真専門学校をはじめた人だけど、
彼の紹介で仕事をしてたら
「お前、広告写真やってみないか」って。
- 糸井
- へえ。
- 操上
- サントリーの『洋酒天国』っていう‥‥。
- 糸井
- ええ、PR雑誌ですよね。
- 操上
- そこで撮ってた杉木直也さんが
めちゃくちゃポートレイトうまくてさ。
開高健さんが
ウィスキーのグラスを持ってる写真とか、
「いいなあ」って、ずっと思ってた。
そんなときに
杉木直也さんが西尾さんと組んで、
広告写真のスタジオをつくるって聞いて‥‥。
- 糸井
- コピーライターの西尾忠久さん。
- 操上
- そう。「勉強になるぞ、お前」と言われて、
「じゃあ、行きます」って。
それからですよ、
原宿のセントラルアパートのあたりを
ウロウロするようになったのは。
- 糸井
- それ、おいくつくらいのときですか?
- 操上
- 27くらいかなあ。
- 糸井
- え、ものすごいスピードですね。
スタートは遅かったのに。
- 操上
- そうだね、いま思えばね。
で、そのセントラルスタジオって会社に
みんなで集まって、
白木屋の広告を一手に引き受けてた。
ずいぶん、勉強させてもらったな。
- 糸井
- 若い人たちの新しいアイディアを
どんどん
引っ張り上げてくれたところなんですね。
- 操上
- そうだね、そういうところでした。
写真だけじゃなく、コピーとか、
広告のつくりかた全体を勉強できたし。
- 糸井
- そうですか。
- 操上
- だから、そのときの経験があったから
フリーになったとき、
TVコマーシャルの企画から演出まで
ぜんぶ、自分でやれたんです。
- 糸井
- そうだったんですね。
おおもとは、セントラルスタジオですか。
- 操上
- うん。
- 糸井
- じゃあ、ロバート・キャパの戦争写真から
はじまって、
まずは雑誌で、それから広告に移ったんだ。
- 操上
- 俺は、別に「戦争写真家になりたい」って
思ってたわけじゃなくて、
とにかく最初は、
キャパの写真の魅力に、魅かれたんだよ。
同時に「写真家になれば旅ができる」と。
- 糸井
- ようするに、
大きく言うと「旅」だったんですね。
- 操上
- そう、北海道から出ることも含めて。
<続きます>