女優からアイドルを経て、
人気ライターとして
本を2冊出版するまでの話。
女優として芸能界デビューしたあと、
SDN48のメンバーとしてアイドルに転身。
そんな華やかな経歴をもつ大木亜希子さんは、
現在、人気ライターとして活躍されています。
歩き方が急にわからなくなるほど
精神的に追いこまれた日を境に、
自分の人生を見直しはじめた大木さん。
紆余曲折を経たいまだからこそ、
学生たちに伝えたいことばがありました。
担当は、ほぼ日の稲崎です。
センターになれなかった過去。
- ――
- オーディションをきっかけに
19歳でアイドルになったわけですが、
女優への未練はなかったですか?
- 大木
- 表向きは「もう女優は諦めたので」と
言ってたような気がしますが、
雑誌やテレビで同級生の姿を見ると、
やっぱりものすごく嫉妬しました。
- ――
- そういう大木さんだって、
SDN48のメンバーのひとりとして
活躍していたんですよね。
- 大木
- もちろん「AKBグループ」という
ネームバリューはありましたけど、
センターは芹那さんや野呂佳代さんで、
そういう方は毎日、超多忙なんです。
私はそんなに人気があったわけじゃないので。
- ――
- そのころの大木さんの目標は、
やっぱりセンターになることなんですか?
- 大木
- もちろんファン向けのブログでは
「がんばります!」とは言ってました。
実際にやる気もありましたし、
オーディションで落ちた方もいるのに、
「よくわかんないけど入っちゃいました」
なんてこと絶対に言えないわけで、
がんばらないという選択肢はないんです。
SDN48というグループは、
メンバーになった翌日から、
壮絶な競争システムに入れられるので、
ブログの閲覧数だったり、握手会の人数だったり、
自分の人気が残酷なまでに数値化されます。
- ――
- へぇーー。
- 大木
- ダンスのトレーニングも
めちゃくちゃ厳しかったんです。
それこそ十数時間、ずっと踊りつづけたり。
意識が遠のく直前まで
ステージに立つための自主練をしていたので、
いつも指先が筋肉痛でふるえてました。
毎日そういう状況なので、
どんなに辛くても
「がんばります」としか言えないんです。
でも、心のどこかでは
「私がセンターを張るなんて、
そんなのめっそうもございません」
という思いはずっとありました。
- ――
- さすがにそこまではがんばれないよ、と。
- 大木
- いや、できればそこまでがんばりたいのですが、
「ごめんなさい、ぶっちゃけ私は無理そうだ」と。
あと、そうやって本気にならないことで、
自分のプライドを守っていたんだと思います。
ホントは自分もアイドル界の渦中に入っていきたいけど、
まわりを客観的に見て、
それはなかなか難しそうだったので。
- ――
- センターになるのは諦めつつ‥‥。
- 大木
- どこかで「私ならまだできる」という
きもちもあったと思いますけど‥‥。
たぶん、センターは張れないにしても、
このグループのどこかに自分が
輝けるポジションがあるんじゃないかって、
そういうきもちだったと思います。
- ――
- どこかに自分を活かせる
ポジションがあるんじゃないかと。
- 大木
- そうですね。
グループにいる間は
とにかく「がんばります」しか言えないし、
手を抜くなんてことは考えられない。
応援してくださるファンの方々もいるわけですから。
- ――
- メンバー全員がんばってるなかで、
「私はそんなにがんばらないです」とは
なかなか言えないですよね。
- 大木
- 言えない、言えない。
もしそんなこと言ったら
「じゃあ、お前なんでいるの?」
って引きずり下ろされちゃいます。
でも、いま振り返ってみると、
「がんばってるフリに近いがんばり」
だったような気もします。
もちろん命をかけてがんばるわけですけど、
がんばった「その先」を
イメージできてなかったというか‥‥。
私はグループのなかでも、
そんなに人気があったわけじゃないから、
人気投票があるたびに
自分のアイデンティティとか虚栄心が
崩壊するのに耐える必要があって、
それはけっこう辛かったですね。
- ――
- そうですよね‥‥。
- 大木
- 結果をみるたびに「悔しい」というよりも、
「私はこのままどうなっちゃうんだろう」
という感じなんです。
どこに向かってるかわからない船の上で、
ずっと揺られている気分でした。
- ――
- 降りるに降りれないというか。
- 大木
- ほんとそうでしたね。
だから、逆に芯が強い女性ほど、
早い段階でアイドルをやめる選択をする人もいました。
結婚して家庭をつくったり、
新しいことをひとりではじめたり。
そういう女性ってまわりから見たら
「逃げた」と思う方もいるかもしれないけど、
私の経験からするとまったく逆ですよね。
あの壮絶な現場にいながら、
自分の意思でなにかを決断したんですから、
むしろすごく強かったんでしょうね。
それは私にはできなかったので。
- ――
- SDN48での活動は、
いつまでつづいたんですか?
- 大木
- グループが解散する2012年3月までです。
2011年の年末には紅白に出場して、
AKB48やSKE48、NMB48といった
姉妹グループといっしょに、
総勢210人ほどで出演しました。
- ――
- 210人?! すごい数ですね。
- 大木
- AKB48のうしろで、当時大ヒットした
「フライングゲット」という曲を踊りました。
振りつけを必死に覚えて、全力で踊ったんですが、
出演がおわったあとに母からメールで
「まったく映ってなかったね」って(笑)。
- ――
- ショック‥‥。
- 大木
- でも、そのころは華やかな場所にいる
「目立たない自分」にも慣れはじめていたので、
「そりゃそうか」みたいな感じでした。
「考える時間」を放棄することで、
現実逃避していたのかもしれません。
その紅白から3ヶ月後、
2012年3月31日にグループが解散したんです。
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