糸井
はじめまして! 糸井重里です。
やなせ
もうダメ〜(笑)。
あっはっは。
昨年はすいませんでした。
会う約束をしていたのに、
入院してしまったんでね。
糸井
とんでもないです。
今日はよろしくお願いします。
よかったです、お元気な時にまた会えて。
やなせ
死ぬ前に会えてよかった。
俺は間もなくね、死ぬんですよ。
糸井
毎日そうおっしゃってるんですって?
やなせ
ええ!
糸井
いまは、じゃ、お仕事は?
やなせ
俺、目がほとんど見えないしね、
耳も聞こえないしね、
あともうほとんど生きられないんで、
仕事はしないって言ってるんだよね。
全部の役職を降りて引退しようとしてるんですけど、
「そうですか、わかりました。
月末までに、じゃ、5枚描いてください」
って、全然聞いてないんだよ。
いったい何を聞いてるのか。
もう半分死にかけてるのにね、
頼みに来るんだよね。
いくら言っても駄目なんだ。
ですから、相変わらず仕事をしてるんですよ。
糸井
そうですか、目と耳が。
やなせ
ボーッと見えることは見えるんでね、
このくらい大きく描いて、それを縮小して、
渡してるんです。
今日の仕事も、石ノ森章太郎と手塚治虫の
追悼のために、両方の絵を描く、
という依頼だったんですけど、
デカく描いて、縮小させました。
ぼくは理事長とか、いろんな選考委員、
全部降りたんですよ。
そしてもう引退するって言ったときに、
東日本大震災が起きた。
その時に引退なんて甘いことは言ってられない。
あの人たちに比べれば、
自分のほうがよほどまだ元気だからっていうことで、
引退は撤回したんです。
撤回して、向こうへ、うちの声優たちを慰問にやったり、
向こうでコンサートをやったり、現物を寄付したり、
いろいろしてたんです。
だから、まだ、引退はしてないんですけどね、
現実はもうダメなの。
糸井
開店休業ってやつですね。
やなせ
もうね、まったくダメなんです。
あっはっは。
糸井
そう言いながら、
笑ってらっしゃるじゃないですか。
やなせ
はははっ。
糸井
震災の後、ぼくらは、
あらためてやなせさんの
「アンパンマンのマーチ」を買ったりし始めたんですよ。
不思議なもので、昔からあったものなのに、
急にあのCDが力を持ち始めた。
ぼくはいい大人でもう65歳になるんですけど、
あの音楽を聴き始めて、
みんなに聴け聴けって言ったんです。
けど、そのために作ったんじゃないですよね。
やなせ
いや、あなたはね、感覚がいい。
糸井
(笑)
やなせ
私のはね、認める人が誰もいないんですよ。
いままで褒められたことは1回もない。
ぼくを褒めてくれるのは、3歳ぐらいの子どもとか、
お母さんとか、たまに小学校の先生とか。
評論家からは、「通俗なものばかり描いてるやつ」。
描き始めた頃はですね、
「こういうくだらないのを描くのは図書館に置くな」
とかね、もうさんざんだったんです。
話はかわりますがぼくはサンリオで
『詩とメルヘン』という
雑誌の編集をやってたんですよ。
糸井
憶えてます。
やなせ
その頃、サンリオはちょっと金があったもんだから、
自由に遣っていいと言われた。
その頃世の中はすごい荒れてたんで、
ぼくとしては、抒情一本に絞ろう、
抒情詩だけを集めて、きれいな絵を出そう、
ということで、一つのレジスタンスとして
『詩とメルヘン』をつくったんです。
ところがですね、
「おんな子どもを騙して仕事をしてる」
って言われてね。もうほんと情けなかった。
そして、サンリオはたしかにお金あったんですけど、
全然出してくれなかったんです。
糸井
あったけど、出してくれないんですか。
やなせ
ほとんど自分のプライベートのお金でやってたんですよ。
ただし、サンリオには感謝してるのは、
あそこは贅沢とケチが同居してる会社でね、
「やなせさん、ヨーロッパへ行ってください」
って言うんですよ。
しかも、最高級ホテルなんだよね。
「こんないいホテルじゃなくていいです」
「いや、話のタネに泊まってください」。
向こうの支社の人が車も全部用意してくれてね、
そういうことに関しては、ひじょうに贅沢だったんです。
ところが、編集するのに黒板を買ってくれって言ったら、
台所へ置くような小さな黒板を持ってきた。
これじゃないんだ。予定表の書ける、
こういう大きな黒板なんだよって。
それから、インタビューに行くから、
録音機を買ってくれって言っても、買ってくれない。
しょうがないんで、自宅のやつを持って行ってたんですよ。
糸井
そういうところはケチだったんですね。
やなせ
ところが、ある部分ではひじょうに贅沢なんです。
ハリウッドへ行った時もね、
毎日毎日すっごい高級レストランで夕食なんです。
「こんなところへ来なくていいです」と言うのに。
さらに帰りはハワイへ寄って、
「何でも好きなものを買ってください」。
ある面ではすごい贅沢なの。
ある面では妙にケチ。
黒板1個買ってくれない。
面白い会社だったんですよ。
お世話にはなりましたね。
糸井
“いちごの王様”(サンリオ創業社長である
辻信太郎さんのニックネーム)が
おごってくれたわけですよね。
やなせ
ぼくが知り合った時は、辻さんは
山梨のお役所に勤めてる人でね、
神田で5人ぐらいの社員と一緒だったんですが、
「山梨シルクセンター」っていうのをやっていた。
ところがですね、彼は文学青年なんですね。
最初は『蝋人形』という同人誌の愛読者でね、
ぼくが詩の本を出したいと言ったら、
すぐ賛成して、出してくれたんです。
糸井
あの出版の頃のことをぼくは憶えてますもの。
やなせ
30年間やったんですよ。
糸井
『詩とメルヘン』は大きい本でした。
やなせ
そうそう。
糸井
絵がいっぱいあって、字が大きくて、
ポピュラーソングみたいな感じに見えましたね。
やなせ
あれは、絵本で詩の本。
そういうのを出そうっていうことにしたんですね。
だから社長は、
「この本に出してくれるだけでみんな喜ぶから、
原稿料は払わなくていい」って言うんだよ。
俺はそれは絶対ダメだ、原稿料は払う。
やっていく以上は原稿料は払わなくちゃいけない。
で、払うことにしたんですよ。
払うんだけど、雑誌の経営を健全化するためには、
自分の給料をまず削らなくちゃいけないんです。
ぼくがもらったのは、毎月20万円。
レイアウトしてる人はね、40万なんですよ。
糸井
あらら。
やなせ
俺より高いのかと思ったんだけど、
それは自分で決めたんだよね。
ちょっとヘンだなとは思ったけど、
じゃ、彼が役に立たなかったかと言うとね、
ひじょうに役に立った。
『詩とメルヘン』は、あの中から
いろんな人が育っていって、
いまでも、やなせさん、やなせさんって言ってくれる。
いろんなことがあると助けてくれる。
地方へ行っても、放送局とか新聞社に
けっこう当時のファンがいるんですよ。
「私は『詩とメルヘン』の愛読者でした」って。
ほんとうにいろんな人がそう言ってくれる。
女優の南果歩さんに会った時も、果歩さんがね、
俺を見てすごく喜ぶんですよ。ニコニコして。
「初めてなのにね、何で喜んでんの」って言ったら、
「私は学生の時に『詩とメルヘン』のすごいファンで、
ずっと読んでたんです」って。
意外なところに、いるんですね。
だからあの本はやっぱりやってよかったかなと思ってるの。
あ、こんな話してて、いいのかな?
糸井
もちろんです。聞きたかったお話です。
(つづきます)
2013-08-06-TUE
この対談(ユリイカ編集版)のほか、
戸田恵子さん、谷川俊太郎さん、西原理恵子さんとの対談、
半田健人さんによるインタビュー、
葉祥明さん、池内紀さん、里中満智子さん、
宇野亜喜良さんらのエッセイ、
そしてやなせさんの絵画や書き下ろしの詩、
やなせさんのプライベートアルバムの写真など、
246ページにわたる総特集号です。
(C) HOBO NIKAN ITOI SHINBUN