#25 人が問うに値するものとは?
「この連載を、考えながら読んでいると、だんだん、
時間や自分を大切に扱えるようになってきた気がします」
という感想を、先日、このコーナー宛てにいただきました。
「ぼくはとてもひねくれた性格で、
人から言われたことを、そのまま行動に移せず、
かといって自分で目的を持っているわけでもない……。
結局のところは、相手にどう見られているのか、
ということばかり、これまでは気を配っていたのですが、
安易な言葉と結論に自分を堂々めぐりさせ、何も残さず、
ただ、心をすり減らしているだけのようだったのでした」
このようにふりかえった上で、
手垢のついた当たり前の言葉に見えるものでも、できれば、
じっくり使い古していきたい、と書いてくださったのです。
こういうことに気づいたから、こうしたいと思った、と、
因果関係を書いていただいたわけですが、
「安易な言葉に堂々めぐりをしていたこと」を悔やんだ後、
「自分には、手垢のついた言葉しか持っていないのだけど、
それを、大切にして、じっくり使い古してゆきたい」と、
同じ「よくある言葉」を、違う角度で見つめていることを、
うれしく読みました。その方なりの発見があったからです。
更に、次のような、丁寧な感想メールも、いただきました。
「世界がどこまでもアナログなものであるなら、
言葉は、あくまでもデジタルな存在なのだと思います。
点をどんなに多く重ねても面にはならないように、言葉は
ある視点から発せられた限定にすぎないように思えます。
ノーベル賞作家のフランソワ・モーリャックという人は、
アンドレ・ジイドとともに、
カトリック作家の代表と言われていますが、
彼は、自分自身の『神』に対する表現として、
以下のようなことを述べていました。
『神のわざはあまりに繊細すぎて、
私には表現することができない。
それだから、神という光そのものを表現するかわりに、
背景を限りなく暗くすることによって、
あたかも黒い紙から光の点が
もれ出るような表現方法を取らざるをえない。
私の作中人物が、罪にまみれ、あまりにも暗い運命を
背負っているように見えるのはそのためである』
私はハイデッガーをちゃんと読んだことがないので、
ほとんどあてずっぽうなのですが、
かつてカトリックで、最後は信仰までも捨ててしまった、
という彼のこころの中には、
『神』をよくわからない人間たちが様々な言葉で定義する
神学に、嫌気がさしてしまったのではないかと思えます。
神という言葉でさえなくてもいい、宇宙の妙なるものには
最後まで信頼をおいていたのではないかとも思うのです。
そのような存在を知ろうとするために、
私も生きているのかもしれません」
この方は、
大学で専攻していたフランス文学者に照らしあわせた上で、
前回の内容を読んで思ったことを、伝えてくれたわけです。
この作家の方の言葉も、なるほどなぁと感心して読んだし、
しかももちろん、ハイデガーは、自分やニーチェのように、
神を捨てた人物の方が本当は信心深いのではないだろうか、
という言葉を、何度も、いろいろところで、語っています。
読んだ上で、この方の中ではじまった考えを読めることと、
扱ったテーマの「言葉」をきっかけに話が深まったことが、
ぼくとしては、ものすごく、うれしかったのです。
コーナーの方針について、次のような感想も到着しました。
「『ほぼ日』に届くたくさんのメールを読んでいると、
きっと、それぞれの人の抱えている思いに
触れざるを得ないのでしょうね。
個別のことにはとても答えられないけど、何らかの
ヒントや指針のようなものは見つけられるんじゃないか、
そのことを、なんとか、伝えられるんじゃないか。
このコーナーからは、そういう思いが伝わってきます。
私は、哲学なんて全然縁がなかったし、それこそ、
ハイデガーなんて読もうと思ったこともなかったんです。
でも、生活の中で、時間の余裕と金銭の余裕が生まれて、
簡単な哲学の本を手に取ったとき、専門的な用語は
全然わからないんだけど、あれ、この考え方や求め方は、
なんだか心に響くなぁ、という漠然としたものを感じて、
けっこう驚いたことがあったんですね。
こんなこと、考えたこともないつもりなのに、
なんでこの言葉が響くんだろう、って。
その経験で、やっとわかったんですよ。
哲学って、別に遠いところのことじゃないのかも、と。
哲学でやろうとしていることと、どう生きていくのか、
真面目に考えて真面目に答を探すことは、とても近いと」
哲学を目指している最中の研究者たちが想像できないまま、
コンプレックスに思っていることのうち、大きなものは、
「生活上、自分は、大切なものを失っているのではないか?
自分は社会経験もなく、人との生活も閉ざしているから」
ということなのではないかと、ぼくはかつて、実際に
哲学研究者の卵たちに会って、直感したことがありました。
精密に研究を重ねるには、日常生活をすべて注ぎたいけど、
論文を的確に仕上げれば仕上げるほど、限られた人に向け、
あることの、ほんの限定された表面しかなぞっていないと、
悩んでいる人はずいぶんいると、感じる場面がありました。
哲学の分野ではなくても、そういう人は、多いと思います。
さらに、この四年間を通して「ほぼ日」に届く何十万通の
メールを読んだ中で、最も多数をしめている社会人の方も、
哲学研究者とは違うかたちで「生活」を心配している人が、
とてもたくさん、いるように、実感しているんです。
「自分は、生活を一生懸命に過ごしているだけで学がなく、
本当は、大切なことを知ることを放棄しているのでは?」
こんな風に、たまに立ちどまる人も、どうやらすごく多い。
研究者は、すべてを研究にささげるあまり、
社会人は、生活に一生懸命になったあまり、どちらも、
「自分は本当は表面しかなぞっていないのではないか?」
と思い悩んでしまう。これはそのままでは不健康になるし、
そのままにしていると、スポーツ選手や経営者や芸能人や、
悟ったような行者の言葉だけが、耳に聞こえることになる。
だったら、厳密ではなくても、こういう考えがありますよ、
という程度であっても、自分が実際に、膨大な量の読者に
触れた経験から、この言葉は届くだろうなぁ、という話を
届けることを、幾人かの人が味わってくれるかもしれない。
そういう前提で、このコーナーを作っているものですから、
コーナーの方針についてのこの感想、うれしかったのです。
発見を伝えたり、経験を乗せた考えを伝えてくれたり、
"#1" から "#24" まで、約五百通の感想をいただきました。
哲学者の発言は、それぞれの人なりの癖で曲がってゆき、
だんだんと、独創的な感想が増えてきたという時期にこそ、
ハイデガーの手の中だけに収まらないでいいということを、
──もしかしたら、もう伝わっているかもしれませんが──
もう一度、ちゃんと、紹介しておきたい、と思っています。
ハイデガーは、ハイデガーなりの不可避の一本道を進んで、
「唯一の考え」というものを求めていった人です。
複雑な用語を噛みくだいてみると、彼はおおよそにおいて、
次のようなことを、哲学の講義で語ったことがありました。
「どの思索者も、『唯一の考え』のみを探そうとします。
その『唯一の考え』というものは、すばらしいがゆえに、
認められるための、宣伝も効果も要らないものなのです。
だから、多くの考えを持ちあわせていても、意味がない。
思索者がそれぞれに抱く『唯一の考え』とは、人しれず、
誰もが直面している一つのことを、静かに思うものです。
『役に立つ答えに到達するために問う』のではなくて、
『人が問うに値するものを作りだすために問う』のです」
ここで紹介した
「人間が問うに値するものを作りだすために問う」
という発想だけでも、例えば、悩んでいる人に、
「それは、今のあなたが問うに値するものですか?」
と参考にしてもらうこともできるものだと思いますが、
ともかく、彼は、宣伝も効能もないままであっても
すばらしいからという理由で、静かに浸透してゆく考えを、
「唯一の考え」として、求めていたことは、確かなのです。
ただ、「唯一の考え」を求めたからと言って、読む側は、
自分が読み取った考えが、彼の主張に本当に合っているか、
厳密に心配して縮まるってばかりいる必要は、ありません。
読んだ人なりの「唯一の考え」を潰す必要はないでしょう。
読んだ人本人の、問うに値する考えに達すればいいわけで。
彼は、彼なりの癖で「唯一の考え」を求めていたからこそ、
後に彼の哲学書に触れた人は、彼なりの泉を味わった上で、
それぞれの癖のある考えを生み、日々を過ごせるのですし。
ハイデガー自身としては、死後ずいぶん経った極東の国で、
こんな形で参考にされることを望んでないかもしれません。
頑固で否定をしたい人なので、かつて、サルトルという
ノーベル文学者が彼を誤読したことに立腹していたように、
「そんなものは、認めない」と言いたがるかもしれません。
しかし、ハイデガーの癖のある考えからは、もしかしたら、
研究職に浸って社会生活から離れている人よりも、
普通の社会人の方々にこそ求められているような豊かさが
たくさんあるのではないか、とも、ぼくは実感しています。
それぞれの人が、誤解も含めて、自分なりに汲み取ることを
汲み取った上で、それぞれの不可避の一本道を進むのなら、
少なくとも、スポーツ選手の伝記を読むことと同じ位には、
何かの行動や考えの源になるのではないか、と思うのです。
このコーナーへの感想には
「哲学書を読んではいないのですが、私が思うことは……」
というような留保をつけたものも、いただくのですが、
そもそも、ハイデガーだって、かつて、
「私の本だけを読む人は、私の哲学を理解できないと思う」
と言っています。
哲学界と違う分野であなたが生活しているからこそわかる、
ということだって、あるのかもしれないのです。
いかにも素人考えだ、と専門家から批判されちゃうような
脈絡のない飛躍のおかげで、ある考えが急に進むときさえ、
ありえないことではないでしょう。
本に触れた人のそれぞれが、
誤読をしあって、飛躍をしあっている、という話で言うと、
古くから、哲学の分野で議論され続けてきた問いの一つに、
「原因と結果は、本当は、つながってないのではないか?」
というものがあります。
ふだん、ぼくたちが「あれが原因だった」とするものは、
「確かに、結果を生む前になされたもの」ではあっても、
「それがあれば必ず結果を生むもの」とは、限りません。
例えば、
結果を生むため、貴重な人生の時間を注いで準備しても、
それが準備に値するかは、結果が出るまでは知りえない。
それが、準備になっているのかどうかさえ、わからない。
具体的な場面で、どんな結果が出るかを予測できないし、
どんな結果ももう一度同じ条件ではやりなおせないから、
多くのノウハウ本を読んでも、また人は迷うのでしょう。
原因と行動と結果が、それぞれつながっていないように、
ある考えを読んだ後、人に生まれる気持ちや考えだって、
それぞれなりの展開をして、いいのではないでしょうか。
行動はいつだって、それぞれなりに飛躍するのですから。
最後に、参考までに、かつて大学の
研究者の方から、ぼくが直に伺った談話をご紹介します。
「研究室が軌道に乗りはじめたときの転換は難しいです。
私自身も教授になりたての、研究室創設当初というのは、
私は、一週間で七日、毎日、朝の七時から夜の十時まで、
ずっと研究室の中にいたわけです。実は今もそうですが。
最初の頃は、学生たちも、みんなそうだったんですよね。
はじめはそういう雰囲気の中で、一気に研究をしていた。
ただ、研究室を作ってしばらく頑張って、
ある程度、国内でも評価を受けられるようになると、
その評判で来る学生が出てきますから、その時点で、
研究室の中身が変わってしまったんです。
そこでやっぱり、大きく停滞したことがあって、
その原因を反省してみると、
どうも、『楽しくなくなる』んですね。
やってることが楽しいというかつての雰囲気がなくなると
もう、何やってもだめという……。
研究室内に、仕方ないからやっているみたいな雰囲気が、
どこかで出てきてしまうんです。
もちろん、私自身、ずいぶんわがままな人間ですし、
勝手なことをやってきていますし、ある意味では、
世間の常識とは、ずいぶんずれた生活もしています。
ただ、私は、研究していくことが、
なにものにも代えられず楽しいわけです。
どうしてこんなに楽しいのか、わからないんです。
そんなに研究を楽しんでいることに対して
不思議だと言われれば不思議でしょうけども、
研究って、いろいろな楽しさがあるんですよね。
ひとつはすごく単純なゲームとしての楽しさ。
他の人よりうまくやったという、戦国時代の武将が
『やあやあ、我こそは』と言うような楽しさですね。
あとの楽しさは、もう一つ、
本当に自分にとって意味のある問題を見つけて、
たぶん、解答なんて見つからないんですけど、
納得できる解決に向けて
近づいていっているという感覚だと思います。
私が研究をしていて一番おもしろいことは、
新しい考え方を作り出して、常識的なものの見方を
変えさせていくというところにあると思います。
そういう意味では、研究と文学は、
そんなに違わないかなという気がしています。
私も若い頃には、文学をやりたいと思ったものですけど、
文学の才能がなかったものですから、
今は、別の手段でやっているんだと思っています。
時間がたくさん与えられたら、やはり研究をしたいです。
すごく変な態度かもしれませんけれど。
例えば、実験というのは、ほんとうに職人仕事なんです。
研究のおもしろさの一つでもあると思います。
実験の結果を外から見るとその方法が何気なく見えても、
そこに至るまで、方法を選ぶまでには、
ものすごい試行錯誤があるんですね。
そこがすべて研究者の手作りで、
学生は、そこのところをほとんど徒弟のように学びます。
先生のやっていることを見ながら、
『こういうところを気をつけなければ』
というように学んでいるので、実験には
ほとんど文学作品を作るような楽しさがありますよね」
今回を読んで、あなたの中で生まれた気持ちは、何ですか?
あなたの生活の中で、考えるに足る問いは、何でしょうか?
次回に、続きます。
あなたが、読んだ後に感じたことや考えたことなどを、
メールで送ってくださると、とてもうれしく思います。
postman@1101.com
件名を「コンビニ哲学」として、送ってくださいませ。
木村俊介
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