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ほぼ日刊イトイ新聞

2024-11-12

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・いろんなところで、ほんとうによく言われる。
 「ほぼ日のお客さんはいいですよね」ということを。
 つまりそれは、「生活のたのしみ展」だとか、
 「前橋ブックフェス」のようなイベントがあったときとか、
 同じ「ほぼ日」の商品を使っている人どうしが
 偶然に出会ったときだとかに感じられていることらしい。
 それを、ぼくに言ってくれることもものすごくうれしい。
 ほぼ日手帳は、持っている人どうしが会ったとき、
 「かぶってる!」と嫌な気持ちになるのではなく、
 「わたしも使ってるんです」と言いたくなると聞いた。
 こういう言われ方も、とんでもなくうれしい。
 そういう「お客さん」とか「読者」とか「ファン」とか
 呼ばれるような人が、互いを認めていることもうれしい。

 そんなことを書くと、「ほぼ日」は宗教ですか、とか
 皮肉なことを言われるかもしれないと思うこともあった。
 言われたらどう答えたらいいんだろうと想像して、
 百歩譲って「宗教と言われてもいいです」と言おう。
 で、「ただし、この宗教は出入りが自由なんです」と。
 これは、かなり正直な答えなのではなかろうか。
 信頼は少しずつでも貯めていきたいと思うが、
 信仰をつくるのはぼくらのやりたいことではない。
 ここまでのことは、これまでにも何度も考えていた。

 「ほぼ日」がはじまって四半世紀以上経ったいま、
 新しく「そうか!」と思いつくことがあった。
 ぼくら「ほぼ日」が、どこかに「敵」をつくったとする。
 そして、いつも「ほぼ日」に信頼を寄せてくれる人たちに、
 「敵を攻撃しよう」と呼びかけたとしても(しないけど)、
 ほとんどが、その攻撃には加わらないだろうということ。
 それは、「ほぼ日」の乗組員たちもやらなそうな気がする。
 たぶん、守備はしても攻撃することはないと思う。
 おそらく「宗教」でもないが「党派」でもないのだろう。
 じゃ、なんなんだ、「たよりない集団」か? 
 いやぁ、そうでもない、「たよりなくもない」のだ。
 互いに、なかまを助けたり力を貸したりはしそうだ。
 実際に、そういう例はけっこう見ているしね。
 夢想家の集まりか? いや、夢には手足もつけている。
 「そういうふうにありたい」と思うようなことを、
 できるだけしている人の集まり、という感じかなぁ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
お客さんや乗組員がほめられるって、最高のよろこびです。


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