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「ほぼ日刊イトイ新聞の本」が
出るよ!

その1 アクセス数には気を取られない。

その2 「最初はダメ話」を集める。

その3 クリエイターの「まかないめし」を提供してもらおう

その4 タダでできるシステムをどう作るか。

その5 東大立花隆ゼミに会う。

その6 空中ジーンズ工場。

その7 いまさらインターネット?

その8 『ほぼ日刊イトイ新聞』で行こう。

その9 スタッフ探し。年賀状を毎日書く。

その10 コンテンツのネタ。

その11 実力以下に評価されているものを拾い出す。

その12 おカネで頼めない人に頼む。

その13 企画の協力者も現れる。

その14 キャラクターの誕生。

その15 六本木駅徒歩二十分に引っ越す。

【見本読み その15】
いきなり創刊が三カ月早まる。



この見本読みも、いよいよ区切りが見えてきました。
今回は、ほぼ日創刊直前の話になりますよー。

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【いきなり創刊が三カ月早まる】

一九九八年のサッカー・ワールドカップ
フランス大会は、日本代表チームが
初出場ということで、サッカーファンだけでなく、
全国的な盛り上がりを見せていた。
 
スカイパーフェクトTVの
「ワールドカップだけのための500時間」は、
試合観戦中の
ゲスト出演者が交わすサッカー談義を
そのまま放送するという企画の番組だった。
試合中継はNHKが独占しているので、
スカパーのほうはコアなファンに向けた
すきま商品ねらいだ。

日本の一般家庭では、いまやテレビが
二台以上あるというのが、
当たり前のようになっている。
二台のテレビにスイッチを入れ、
一方でNHKの試合中継を観戦し、
もう一方でスカイパーフェクトTVの
サッカー談義を楽しむということも可能である。
試合中継が終わるやいなや、スイッチして
「わいわいと感想を語り合う」という見方もできる。

東京臨海副都心の青海スタジオと
試合の現場でもあるフランスのパリの
仮設スタジオを衛星回線で結ぶ。
青海スタジオにはラモス瑠偉さんや
都並敏史さんなどが陣取り、
パリ・スタジオにいるセルジオ越後さんや
中井美穂さんなどと、衛星回線を通じて
サッカー談義に華を咲かそうというものだ。

ぼくがかねてからよく知っていた
スカイパーフェクトTVのKさんから、
「サッカーにあまり詳しくないゲスト役」
として出演依頼を受けたのが、五月のはじめだった。
サッカーに詳しくない視聴者でも
楽しめる番組にしたいので、
「レギュラーホストとして、出演してもらいたい」
と頼まれたのだった。
 
企画自体はおもしろいと思った。
問題は六月十日からはじまるワールドカップの
全試合を観戦し、重要なゲームのある日は
青海スタジオに二時間以上詰めてもらいたい、
と言われたことだ。
準決勝の七月七日まで試合がないのは
二、三日にすぎないから、
毎日の出演となるときつかった。

「『ほぼ日』の創刊に向け、さらに
 馬力をかけようとしているときだから忙しい。
 残念なんだけれど」
と口に出した瞬間、そうか、
東京とパリのスタジオが衛星回線で結べるのなら、
臨海副都心の青梅スタジオと
ぼくの新事務所(港区東麻布)を
インターネットで繋ぐくらいは簡単だろう、
と思いついた。

「事務所にいながらに出演できるよう
 ネット中継するって考え方もあるね」
と言葉を続けた。
 
Kさんは新しいことに
挑戦的なプロデューサーだった。
「それは面白い!できますよ。
 それなら出演オッケーですよね」
ここで、電話回線によるテレビ会議システムで
スタジオとぼくの事務所を繋ぐことがきまった。
 
さらにその場で、『ほぼ日』の創刊日まで
決まってしまった。
というのは、Kさんがリアルタイムで
視聴者の声を番組に反映させたいと考えていたからだ。
電話やファックスを使用する場合は
多数のオペレーターを必要とするが、
ホームページの掲示板なら手軽にできる。

「糸井さんが立ちあげようとしている
 ホームページに、間借りさせてもらう形で
 番組の掲示板をつくりたいんです。
 お手伝いするから『ほぼ日』の創刊を
 前倒しできないかな」
 
そのためには、ワールドカップの開催が六月十日だから、
その数日前には『ほぼ日』を立ちあげなければならない。

おいおい、そういうつもりじゃなかったんだけど、
とも思ったけれど、ぼくの性格からして、
こういう機会に「えいやっ」とやってしまわないと
慎重になりすぎていつまでも
スタートできなくなることも大いに考えられた。
乗ってみよう、「手伝ってくれる?」。

スカイパーフェクトTVのほうも、間に合わなければ困る。
だから、きっとなんとか
間に合わせようとしてくれるはずだ。
「もちろん、手伝いますよ。なっ」
そばにいた青年に確認するように、
会議に参加していた人々が同意をもとめた。
「はい。なんとかなると思います。
 できないことではないです」
その中継の担当になるはずの青年は、明るく答えた。
「じゃ、六月六日に創刊しよう!
 すげぇことになったなぁ」
 
誰もぼくに同情なんかしなかった。
このテレビ局そのものが、
毎日こういう決断の連続だった時期だから、
自分たちのことで必死だったのだ。

六月六日というと、あと約一ヵ月。
ネット上の住所にあたるドメインの取得や、
ホームページづくりに関わる
技術的な問題などについて、
どんな困難があるものなのか、正直ぼくは知らなかった。
まったく知らなかったからこそ
「じゃ、やろう」なんてことを言えたのかもしれない。

いま思えば、ぼくは運のいい人間だった。


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(つづく)

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2001-04-23-MON

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