私 |
オランダの人は自分たちの社会を外に対して
オープンにしていて、それでもオランダ人という
アイデンティティを失わないのはなぜなんでしょう? |
Hoffman |
オランダ人がオランダに対してアイデンティティを
そんなに持っているとは思いません。
もしオランダで100人の人に通りで会って、
オランダの国歌を歌ってくれって言ったとしたら、
そのうち15人くらいがせいぜい最初の何小節かを
歌えるくらいではないかと思います。
例えばオランダのサッカーの選手で
とても有名な人でも、別に自分の国のチームに
参加したいという意識はないです。
彼らはオランダでもどこでも、
もっと金の稼げるところに行きます。
それは現代のオランダ人の考え方です。 |
私 |
そうするとアイデンティティを持つところというのは、
国でも民族でもなく自分の財産とか家族とかに
なっていくんでしょうか。 |
Hoffman |
私の両親はスペインに住んでいます。
父はインドネシアで生まれたんですね。 |
私 |
はあ〜。ぜんぜん違うんだなあバックボーンが。 |
Hoffman |
私自身も半年は自分の仕事で
オランダにはいないですね。
ですからオランダ人だということを
あまり意識していません。 |
私 |
世界にはホフマンさんの感覚とは
対極的な人たちが大勢いますよね。
例えば白人中心主義とかがあるでしょう。
あるいは国家意識の強いところも
たくさんありますよね。
そういう人たちっていうものは、
ホフマンさんのようなインターナショナル、というか
国家への帰属意識が薄い方の目で見ると、
どのように見えるんですか? |
Hoffman |
……むずかしい(笑)。
しかし、いい質問です。
これは私の個人的な考えですが、
旗の下に集まる、旗に従っていく人というのは、
個人としてのアイデンティティを求めようとして
逆に失っているのではないかと思います。
個人ということ、インデヴィジュアルという
言葉のラテン語の語源は「分けられないもの」
という意味です。そういう意味での個人性を、
熱狂的なサッカーファンとか、
ああいうふうになると逆に失っているように思えます。 |
私 |
はあ〜そう感じるんですか。
印象的なご意見を聞けてうれしいです。 |
Hoffman |
このインタビューを受けながら
いろいろなことを感じているんですけど、
インデヴィジュアルというひとつの核になりたいと
思う者が集まって、オランダの社会というものは
出来ているという気がします。
だからそういう意味では
社会と個人のパラドックスがありますね。 |
私 |
日本人は戦争に負けるまでは
国というものにアイデンティティを持っていたと
思うんです。でもその国が戦争に負けて、
それから戦後の時代には今度は勤める会社に
アイデンティティを求めたってことになると思います。
でもそれがまただんだん崩れ始めています。
大きな会社もつぶれていきますからね。
地域も家族も崩れ始めて、
それで今や本当にいやおうなしに
インデヴィジュアルになりつつあるんです。
でもそれが急激に過ぎるのか、
バックボーンがないままに
素っ裸になっていくような不安が
あるんだと思うんです。
それで精神的な不安、無気力とか不眠とか
関係障害とかのような問題が
起こってきているんだと思います。
そこへいくと、オランダの人というのは
インデヴィジュアル慣れしてるというんでしょうか、
かなり筋金の通ったインデヴィジュアルの
保ち方をしているように見えるんです。
精神的にも安定してビョーキになることなく
外へ開いていける、そういうひとりを保つあり方に
とても興味があるんです。 |
Hoffman |
インデヴィジュアルであること、
個人主義的であるということが絶対的にいいことか、
というのは疑問です。
それは最初にお話した、
オランダの若者たちが抱いている
ペシミズムに関係してくるからですね。
そういうことにつながるから
必ずしもいいとは言えない。
オランダでも、誰もがインデヴィジュアルだとは言っても、
本当にそれを強く保っているという人は
とても少ないでしょう。だから教会に属するとか、
サッカークラブに属するとか、
どこかに逆に帰属するものを求めていく。
マイケル・ジャクソンのファンになってみたりとか(笑)。
結局帰属を求めていくんです。
私たちすべてはそういった帰属する「父」の
広げた手が必要なんでしょうね。 |
私 |
私たちのホームページを主催している
糸井重里さんの書いていたことなんですけど、
これから日本は経済的にも社会的にも
どんどん厳しく能力主義的になっていくし、
同時に国際化もしていくシビアな社会に
なっていくってことで、そういう時代には
やはり家族というものがたいへん大切に
なっていくだろうと言うんです。
男女が結びついて子供を育てて、
なんとか未来につないでいくっていう家族という
ものですよね。私もそうじゃないかと思うんです。 |
Hoffman |
基礎(Fandamental)を作るという意味では
そのとおりですね。 |
私 |
男と女の関係っていうのが豊かな関係で
あるような社会が、結局個人がタフでいられる
社会なんでしょうかね。 |
Hoffman |
私はロマンチックな人間です(笑)。
私は女性と生活を分かち合うことは
とても重要なことだと思っています。
男女の違いも共通するところも
お互いに楽しめるものだと思います。 |
私 |
『シャボン玉エレジー』の映画の話に戻りますけど、
この映画では主人公の男女は互いに国籍も違うし、
言葉も違うし、それぞれが互いに
理解の困難な心の傷を抱えていて、
非常にディスコミュニケーションの状態から
出発しますよね。そういうふたりが
共に暮らしていって、
それで心が触れ合うようなことが
可能なのか可能じゃないのか、
ということになっていくわけですね? |
Hoffman |
これはイアン・ケルコフの映画です。
彼の映画には楽観的な社会観や人間観は
あまりありません。
私だったらもっと楽観的な映画にしていくでしょうけど。 |
私 |
仮にホフマンさんが監督するとしたら
どういう映画になるんでしょう。 |
Hoffman |
たぶんとてもつまらない映画に
なってしまうでしょう(笑)。
私とイアン・ケルコフは性格が違います。
彼は傷があれば、そこにナイフを差し込んで
こじあけるような性格です。
私は傷があればなるべく触れないように
避けるような性格ですね。
イアン・ケルコフは「衝突」ということを
象徴しているような存在です。
だから私と彼は互いに調和しているんです。
イアン・ケルコフは、私と主演女優の星野舞さんとの
演じる男女の関係に、柔らかさとか温かさが
すごくあることに驚いていました。
それは結局私が演じてしまうからですが、
私が割合と柔らかく優しく演じたことが、
イアンが最初にこの映画に対してもっていた
考えかたとバランスがとれて、
結局良い結果になったと思います。
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私 |
ホフマンさんは国際的な評価の高い
素晴らしい俳優さんですからね。 |
Hoffman |
私は自分の出演作の中では
『イブニングス(Evenings)』が
最高の出来だったと思っています。
1990年にその演技で
ベスト・ヨーロピアン・アクターに選ばれました。
その授賞式はジュネーブで行なわれて
私は最高に幸福でした。
私は映画には常に人間的な暖かみがあるべきだと
思っています。たとえどんなに過激な映画でも。 |
私 |
それがホフマンさんの演技観の核心なんですね。 |
Hoffman |
そうです。私が誰かを演じる時には、
その人物を単純な性格ではなくいろいろな側面を
持っている人間として表現したいんです。
もちろん良い面だけを見せるのでもなく、
人間がいろいろな面を持っていることを強調したいのです。 |
私 |
プリズムのようにですね。 |
Hoffman |
そうです。
ひとつお話していいですか? 私は『イブニングス』で
オスカーのノミネートを受けたいと思っていました。
それでロスアンジェルスに行きました。
ロスアンジェルスの空港で入国の管理官に
「アメリカに来た目的は?」と聞かれました。
1990年のことです。
それで「アカデミー賞のノミネーションを受けるために
来たんです」と言ったんですよ。
それを聞くやいなや、仏頂面だっ管理官が
急に笑顔になって態度が急に良くなりました。
「じゃああなたは監督ですか? 俳優ですか?」
と聞くので「俳優です」といいました。
そしたら彼はこう言いました。
「ワーーーォ!! 悪役(Bad guy)かい?
善い役(Good guy)かい?」(笑)」 |
私 |
ありゃまあ。いかにもアメリカですねえ。 |
Hoffman |
アメリカ映画の歴史を見ると、
フロイトやユングとか、
さまざまな人が積み重ねてきた人間に対する
洞察をすべて忘れて、単純に悪玉善玉といった
人間観に再び退行してしまっています。
それがハリウッド・スタイルです。
確かに映画を楽しむ人の多くは、
悪玉善玉といった見方で映画を見がちでは
ありますけどね。
オランダとスウェーデンとハンガリアとそして日本、
そういう国はもっと映画を作るべきです。
なぜならば、それらの国で作られた映画は
人間の多面性をよく表現しているからです。
ハリウッドのように人間を単純に
カテゴリーで固めたものではない映画が
作られているからです。
ですから、私は日本は今のままの
日本であってほしいと思います。 |
私 |
長い時間、貴重なお話をありがとうございました。
(おわり)
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