気がついたらがらんどうの押し入れで眠りこけている。
手にしたビール缶は空っぽで、
外へ這い出すと二日酔いではないけど
お尻と背中とが痛む。
母はもういなかった。
携帯電話が鳴ったかもしれないけど、
そのとき私には聞こえなかった。
パンダの段ボール箱にじかに、
ボールペンの字で走り書きが残してあって、
そういうところが母らしい。
今朝から義妹が入った産院の住所と電話番号。

午前十時、引越業者の男の人がふたりやってくる。
次から次へ、ラグビーの試合みたいに
段ボール箱を運び出し、
一時間経たない間に205の空間を
がらんどうにしてしまう。
206はいまどうなっているだろう。
ふしあなを覗いたら、
母の書き置きに書いてあった産院の、
光の射しこむ窓辺のベッドが見えるかもしれないし、
長谷川等伯と久蔵が並んで
絵筆をふるう様が見えるかもしれない。
宵闇に浮かびあがる灰色の屋根が、
Sさんと対面する中学生の私が、
生まれたばかりの「寿限無」のむずかる様子が、
小さな穴の向こうに見えるかもしれない。

私のために今日まで開いてくれていた。
私の部屋205は、アパート二階の南西の角、
西隣はアスファルト敷きの駐車場。
壁の向こうに部屋があるはずがない。
もともとなかった空間だから、
建物自体取り壊されようが、
それがまたなくなる、ということはきっとあり得ない。

ありがとう、206、ふしあな。
また会いましょう。

正午、ドアベルが鳴り、大家さん夫妻と顔を合わせる。
手紙の文面通り、透明感のある老夫婦。
しきりに恐縮し、頭を下げられるのを、
こちらも納得しての話だから、
と膝をついたままで応じる。
支度金はしっかりいただく。

鍵を渡し、帆布のショルダーバッグを担ぐ。
もう一度ふしあなの開いた押し入れを振り向いて、
あとずさりする犬のように、
少しずつ、少しずつ、玄関から遠ざかる。
階段の踊り場まで来ると、
私は、赤黒いあのドッジボールみたいに、
てん、てん、てん、と階段を弾んで、
光の溢れる外の世界へ飛びだしていく。

 
いしいしんじさんの「ふしあな」
第1シーズンは今回で終了です。
また、突然、ぽっこりと「ふしあな」があいたとき、
それが第2シーズンのはじまりです。
どうぞたのしみにお待ちください。(編集部より)
文・絵:いしいしんじ プロデュース:糸井重里 須貝利恵子(新潮社)
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