こんにちは、ほぼ日のです。
ある日、ほぼ日あてに
このようなメールをいただきました。
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このメールに最初にピンときたのは、でした。
そして、ほぼ日の企画で
生きものと人間のかかわりをテーマにしたコンテンツを
いくつか担当している私も、興味をもちました。
はな子がやってきたときの日本といまの日本のちがい、
ゾウの暮らしと人間の暮らしの関係‥‥。
集まった写真を見ることで、
「自分とゾウが、ともにいる世界」を
ちょっとでも考えられるかもしれない、と思いました。
ゾウのはな子は、太平洋戦争が終わり
4年たった1949年8月、
2歳半でタイからやってきました。
ちなみにイトイが0歳のころです。
そしてはな子は
69歳の最高齢(日本で)で亡くなりました。
「戦後最初に来て最長寿」のゾウでした。
はな子という名前は、
絵本『かわいそうなぞう』のもとになった、
戦争中に上野動物園で餓死した「花子」の名前を
受けつぐように、つけられました。
じつはいまも、日本の動物園にいるゾウの名前は、
「はなこ」がトップなのだそうです。
はな子がやってきた戦後の日本は、
テレビは普及しておらず、
「ゾウ」の姿をお話だけで知っていた人たちが
ほとんどだったそうです。
戦争で上野動物園からも姿を消していましたので、
当時の子どもも大人も
ほんもののゾウを見て驚き、たいへんよろこんだようです。
タイと日本の国交も絶えていたので、
はな子には「平和の使者」としての役割もありました。
戦争でしずみがちだった日本の子どもたちのために
ぜひともゾウを贈りたいという
タイの人びとの意向も強くあったのだそうです。
当時の動物園ではもちろん、
はな子の写真をたくさん撮ったでしょうし、
67年間も日本にいたのですから、
たくさんの報道機関のカメラが
その姿をとらえ続けたことと思います。
ではなぜ今回、
はな子と「いっしょに写った」写真を
集めることになったのでしょうか?
メールをくださった吉祥寺美術館の大内さんと、
この活動をすすめておられる
AHA!(アハ)の松本さんに
お会いすることにしました。
松本さんは、まず、こんな話をしてくださいました。
「AHA!はこれまで、
家のおしいれに眠る8ミリフィルムを
『市井の人々による記録』ととらえ、
発掘し、活用する活動を日本各地で行ってきました。
昨年、吉祥寺美術館で開催された企画展に参加するため、
武蔵野市周辺でも
8ミリフィルムを探す活動を行いました。
そのときに、ゾウのはな子の映像や写真が
あちこちのご家庭に残されていることに気がつきました」
携帯電話やビデオカメラが普及する前、
人びとは8ミリフィルムを使って
いまのホームビデオを撮るように
日々を記録していました。
そのなかに、松本さんは
はな子の姿をたくさん見つけることになったのです。
さまざまな人びとによって記録された
「はな子」を通して、
戦後の社会や暮らし、そして
記録に残すという営みそのものを
見つめ直すことができるのではないか、
という視点が、今回の写真募集のきっかけだったそうです。
戦争が終わって4年がたった
日本の夏に暮らす人びとにとって
ゾウがやってきたことは夢のようなニュースで、
「動物園にゾウを見に行くこと」は
大きなイベントだったことでしょう。
・はな子は戦後まもない日本の希望のような存在だった
・日本に子どもがたくさんいた
・一般の人がはじめて自分でカメラを手にした時期だった
・はな子は東京で、長生きした
・ゾウは大きい動物だった
いくつかの事情が重なって、
戦後70年を暮らした人びとのアルバムに
たくさんの「はな子」が記念写真として
おさまることになったのだと思います。
はな子は日本にやってきたあと、
移動動物園で各所をまわり、
上野動物園から井の頭自然文化園に移ることになります。
そのときの、上野動物園園長に宛てられた
武蔵野市児童福祉審議会長の「請願書」の写しを見ました。
そこには、このようなことが書かれていました。
井之頭自然文化園で「秋の動物祭」を開催されるにつき、象、ライオン、マントヒヒ、お猿電車等を上野動物園から移動されて多彩な行事を催されましたが、当地区児童のよろこびは申上ぐる迄もなく一般家庭の関心をよび我々児童福祉事業に携わるものとして甚だよろこびに堪えないところであります 戦後東京都の人口は益々西に伸び当市並に近隣の人口も急激に増加して居りますが児童を対象とする諸文化施設は上野其の他の中心地に偏して一般家庭に於ては交通並びに経済上容易に利用し得ない状況にあります ただ僅かに井之頭自然文化園のみが時代の要望の下に戦時中施設され当地区の児童ならびに家庭に双手をあげて迎えられたのであります しかし乍ら仝施設は戦時中の応急施設であつて今日の施設として不充分であり、むしろ今後にまつところが多いのではないかと存じます |
ゾウのはな子は、人びとの願いによって、
井の頭自然文化園にやってきました。
そしてそこで62年間暮らし、
人びとの生活と記憶に少しずつ存在することになりました。
まるで、はな子という「メディア」が
人びとをつなぐように。
松本さんはこうおっしゃいます。
「はな子は、それぞれの時代を生きた人々の
『記憶の収蔵庫』でもあります。
はな子と写った1枚を持ち寄ってもらい、
それらをつなぎ合わせて本にしていくなかで、
何かを失うこと、何かを残すことについて
考えたいと思います」
なぜ、人びとは、
はな子の前で写真を撮ったのでしょうか?
はな子はどんな存在だったのでしょう?
動物園における動物の飼育法や考え方は、
はな子がやってきた当時から変化してきています。
ゾウの輸送の問題、飼育管理の難しさ、
子どもの人口の減少、
さまざまなことがからんで、もしかしたら
「日本にゾウという動物がいて、
みんながお約束のように記念写真を撮った時代」
が特異だったということになるかもしれません。
大内さんはこんなことを教えてくださいました。
「これまでに集まった写真を見ると、
1980年代以降から、
人びとがはな子といっしょに記念撮影をする機会は
減ったのかもしれない、と推測しています。
そこにはさまざまな娯楽の増加という
社会状況が反映されているのかもしれません。
でもその後、携帯カメラの時代が来たことで、
はな子は再びたくさんの方の記録に
残されることになったと思います」
みなさまのアルバム、
携帯電話やカメラのメモリーカードに
「ゾウのはな子」はいませんでしょうか?
もしもみなさまが
「ゾウのはな子」といっしょに撮った写真があったら、
武蔵野市立吉祥寺美術館へ送ってください。
〒180-0004
東京都武蔵野市吉祥寺本町1-8-16コピス吉祥寺A館7階
武蔵野市立吉祥寺美術館
はな子写真係 宛
※郵送した場合の写真現物は返却されます
hanako@musashino-culture.or.jp
※画像データの大きさは500KB以上をめやすにお送りください
2016年12月28日(水)消印・送信有効
*提供写真は使用条件を確認の上、
井の頭自然文化園とも共有されます。
くわしくは
武蔵野市立吉祥寺美術館の案内ページ
または井の頭自然文化圏の案内ページを
ごらんください。