ほぼ日の学校長だよりNo.2
「“瞬殺”の衝撃」
糸井さんに初めて「学校」の構想を聞かせてもらってから4ヵ月半後、私は思いがけない展開で、ほぼ日の乗組員になりました。2017年4月14日のことです。6年9ヵ月、編集長を務めた「考える人」が休刊になり、新潮社を退社したのが3月末。あれよあれよという間の出来事でした。
そのあたりの経緯については、入社直前に急遽行われた座談会があります。東大を退官して、やはり4月からほぼ日にサイエンス・フェローとして加わった物理学者の早野龍五さんと糸井さんと私の鼎談です(「新しい『ほぼ日』のアートとサイエンスとライフ」)。是非そちらをご覧ください。
「学校」の話も少し出てきますが、具体的にどういう「ほぼ日の学校」をめざすかは、すべてこれからの課題でした。いずれにせよ、これまで19年間実績を積み上げてきた「ほぼ日」という母胎から生まれる学校です。「ほぼ日」らしくて、さらに言えば、「これからのほぼ日」を先取りしていく新しいプラットフォームになるわけです。人が集まり、何かを学び、充実した時間を体験する、そういう賑やかな場を「ほぼ日」の中から創り出していくのです。
5月は糸井さんが「ひと月休みを取る」と宣言していたこともあり、「学校」のイメージをあたためながら、アヒルの水かきのような(表立っては何も起こらない)静かな時間が過ぎていきました。
「学校長」という肩書きはまだなくて、63歳の“新人”は、ほぼ日手帳や地球儀のチーム、読みもの、デザイン、TOBICHI、ドコノコなど、それぞれのテーマにしたがって動いているほぼ日乗組員たちの日々の様子を、目で追うでもなくそれとなく眺めながら「学校」について考えていました。
入社とともに用意された席は“アフリカ”と呼ばれる一画にありました(五大陸に、なぜかカナダ、セイロンが加わった分け方です)。席の右隣は商品事業部の渡辺弥絵さん、左隣はシステムチームの芦沢嘉典さん。パソコンの設定など、デスクまわりの環境整備は、芦沢さんがすべて手伝ってくれました。渡辺さんはちょうど志村洋子さんの仕事をしていました。志村さんが「考える人」で連載していたエッセイが本になり(『色という奇跡――母・ふくみから受け継いだもの』、新潮社)、それを機に志村さんのインタビューや、本の付録用に制作されたオリジナル裂(きれ)作品の展示販売をTOBICHIで行ったりしていました(いまも本は「ほぼ日ストア」で販売されています)。これも奇しき偶然でした。
「私はけっこう古いんです」と渡辺さんは言いますが、それでも2005年3月入社。芦沢さんは2016年11月入社。ほぼ日は若い会社です。
両隣がまちまちな仕事をしているように、ほぼ日の席の配置は独特です。各学期をイメージして年に3回、全社一斉に抽選で席替えが行われます。ヨーロッパ大陸に行くか、南米に行くか、誰が隣人となるかは、神のみぞ知る。6月の席替えで、私はアフリカ内の移動でしたが、今度は同期(?) 入社の早野フェローとご近所の席になりました。
窓からの眺めや空調の具合など、人気のある席、ない席がありそうですが、「どこが一番人気なのですか?」と聞いたら、異口同音に返ってきた答えは「おやつテーブルに近い席」でした。
到来物や、出張した乗組員からの手土産などは、すべてフロア中央のおやつテーブルに置かれます。来客から洋菓子をいただいた時でした。「こういう場合、ほぼ日ではどうしています?」と斜め前の星野槙子さん(2014年2月入社)に尋ねると、彼女は大きく頷くと、「近江屋洋菓子店のレーズンビスクウィのいただき物で~す。河野さんのお客様からで~す」と立ち上がって、フロア全体に呼びかけました。「声に出さないと、気がつかない人がいるんですね」。
すると、おやつテーブルをめざして、あちこちから人が集まり始めます。打合せをしていた人たちはそのまま話を続けながら。フロアの端にいた人は、ニコニコしながら足早に――。
40年近い社会人生活で初めて目にする光景でした。お菓子はまたたく間になくなりました。その後も30個のシュークリームが瞬時に蒸発する場面など、数々の衝撃シーンを目撃しました。おやつテーブルは、別名ピラニア・テーブル。テーブルに運ばれる道中で、手を伸ばすピラニアも、たまにはいます。
元気な子どもみたいだな。食欲があって、のびのびした好奇心があって……。「学校」の企画がますます楽しみになりました。
2017年9月27日
ほぼ日の学校長