ほぼ日の学校長だよりNo.12
「古典ベスト・テン(その1)」
いよいよ年の瀬、12月。
「師走」の語源には諸説あって、正確なところは不明だそうです。
師匠であるお坊さんが経をあげるためにあちこち忙しく飛び回っているからだとか、日頃悠然としている学校の先生でさえ、この時期は気ぜわしく駆け回っているからだとか、仕事や四季の「し」が「果す(終わる)」ので、一年の最後を「し・はす」と呼んだとか。
いずれにせよ、先週末ハタと思いあたりました。学校長も「師」のはしくれ。今年は例年になく、ほんとうに走っているのです。
来年1月の開校準備、暮れにはそのプレ・イベント「ごくごくのむ古典」の開催が控えています。師走という言葉が、いつになく身にしみます。
そんな目前の慌ただしさとは打って変わって、ずいぶん気の早い注文が舞い込んできました。再来年(!)の計画のために、日本の古典、世界の古典を10篇ずつ選んでほしい、というオーダーです。
さぁ、どうしたものか。締切なのですが、すぐには走り出せません。
サッカーや野球のベスト・イレブン、ベスト・ナインを考えるのでも、大いに悩みます。ましてや、今度の対象は「古典」です。古典のベスト・テン。
手がかりを求めて思い浮かべたのは、アメリカの大学で「リベラル・アーツ」教育の出発点になったといわれる「グレート・ブックス(Great Books of the Western World)」という叢書です。
これはシカゴ大学学長だったロバート・M・ハッチンスと同大のモーティマー・J・アドラー教授(哲学)が中心になって、1930年代に全米で展開した「グレート・ブックス」運動(古典セミナー)の基礎をなすシリーズです。
全54巻。最初の3巻は総論的なものなので、残りの51巻にさまざまな古典作品が収められています。第4巻がホメロス、第5巻がアイスキュロス/ソフォクレス/エウリピデス/アリストファネス、第6巻がヘロドトス/トゥキュディデス、以下、プラトン、アリストテレス(2巻にわたります)など、ギリシア・ローマの著作が続きます。
そして中ほどの第26、27巻にシェイクスピアが登場し、ガリレオ、セルバンテス、デカルト、スピノザ、パスカル、ニュートンといった名前がそのあたりに並びます。最終巻がフロイトです。
あくまでアメリカの大学生を読者に想定していますが、「グレート・ブックス」の理念や考え方は、いまなおまったく古びていません。それどころか、ますます腹に響くような重さを感じます。
少し長くて、硬い文章かもしれませんが、以下をじっくり読んでいただけるでしょうか。先のM・J・アドラーが、第2次世界大戦の前夜に書いた文章で、強い危機感に裏打ちされています。
<ファシズムと世界戦争の脅威の中で、偏見、エゴイズム、ニヒリズムが蔓延し、人間、社会が拠り所にすべき、共通の価値、普遍的価値を喪失してしまっている。このために真の民主政治、民主社会から遠のき、『力は正義なり』に陥ろうとしている。民主政治、民主社会は、普遍的価値、倫理基準に根ざす自由を大切にするからこそ、偏見、エゴイズム、ニヒリズムを取り除き、ファシズムや戦争の危機を克服することができる。こういう価値、倫理基準を喪失しないようにするために、教育の側から何をなし得るのか。それは自由学芸教育を重視することである。しかし、今日のアメリカにおいて、この自由学芸教育の重要性が認識されていない。状況は悪いほうへ向かっている。教育、倫理、政治といった規範を扱う学問が軽視され、実証的学問(社会科学、自然科学)が尊重され、このために価値観や倫理基準は、時代や社会が変われば、相対的に変化するものであり、また人間個人個人によって違うものであるという風潮をつくっている>(*)
このような観点で編まれた「グレート・ブックス」を、これまで4回、個人的に強く意識させられることがありました。
ひとつは、最初の勤め先だった中央公論社が刊行した『世界の名著』(全81巻)のシリーズです。「ホームライブラリー」と呼ばれる全集企画のひとつで、「新しい時代のための『やさしく読める古典全集』」と銘打ち、1966年に刊行が始まります。事業としても大成功を収めました。
10年ほど前、ある地方有力書店の幹部と話していて、おもしろいエピソードを聞きました。『世界の名著』が刊行される直前、若い書店員だったその人は、当時1月15日だった成人式の会場出口で、式典を終えて出てくる若者たちを待ち受けました。なんと、『世界の名著』のチラシを配ったというのです。
「成人したら、『世界の名著』」と呼びかけたのでしょうか? すると、その日からほんとうに、予約の注文が次々に入ってきたというのです。
ちなみに2月の第1回配本は「ニーチェ」です。独文学者の手塚富雄さん(この巻の責任編集者)による「ツァラトゥストラ」の画期的新訳と、同氏の懇切な解説が書き下ろされ、付録としては三島由紀夫と手塚さんの対談もありました。
初版25万部。もちろん完売し、増刷が繰り返されました。びっくりするような時代です。
私が入社したのは、完結したこの全集のソフトカバー普及版が出始めた1978年です。函入り、ハードカバーの旧版がいかに売れたか、という話を先輩から聞き、教えられたのが「グレート・ブックス」の存在でした。
『世界の名著』に編集参与という肩書きで加わった教育社会学者の永井道雄氏が、アメリカ留学中に出会った「グレート・ブックス」運動のことを、幼時からの親友である中央公論社社長に伝えたことが、大きなヒントになったというのでした。
2度目は、その「グレート・ブックス」の本場であるアメリカで、学生が本を読まなくなった、古典が軽視され始めた。その結果、大学の教育水準が低下し、アパシー(無気力・無関心)が広がり、過去の知的遺産がきちんと受け継がれなくなった、と告発する著作が登場した時です。1987年に刊行された、政治哲学者アラン・ブルームによる『アメリカン・マインドの終焉ーー文化と教育の危機』(みすず書房)という本です。
そこに描かれたアメリカの大学の光景は、いまの日本の大学事情や、一般教養教育を取り巻く状況にそのまま読み替えることが可能です。
アラン・ブルームは、こうした兆候に警鐘を乱打し、ゆえに古典教育にもっと工夫を凝らし、リベラル・アーツ教育を充実させるべきだと提唱したのです。
一方その頃、日本の企業人たちが「グレート・ブックス」に触発されて生まれたアスペン人文科学研究所主催の「アスペン・セミナー」に参加し始めます。コロラド州のリゾート地、アスペンで開かれる企業エグゼクティブのための古典セミナーです。
参加者は1~2週間にわたって同じ施設に泊まり込み、厳選された古典からなる分厚いテキストを読み込み、碩学(せきがく)の講義に学びます。そして、セミナーでは、モデレーター(司会役)の進行に促されながら、テーマにそった議論をテキストにもとづいて行います。3分以内で発言する、というのが基本ルールで、何より「対話(ダイアログ)」が重視されます。
テキストとの対話、参加者同士の対話、自分との対話。
日常生活から切り離された空間で、集中して「考える」時間を持つことで、ビジネス・リーダーとして、また人間として必要な素養、正しい判断力を磨こう、という試みです。
参加した日本の企業人たちは、一様に衝撃を受けて帰国しました。そして、ひとつのアイディアをあたため始めます。富士ゼロックス元会長・小林陽太郎氏を筆頭に、いつか日本にも独自の「アスペン・セミナー」を立ち上げることはできないか、ビジネスパーソンのための「リーダーシップ」養成プログラムを始めることはできないか、という構想です。
実現するまでには、約20年の歳月が必要でしたが、すぐに具体的な動きが始まります。
‥‥というあたりで、続きは次回に譲りたいと思います。手元の作業として、古典10選を急がなければなりません。
2017年12月6日
ほぼ日の学校長
*出典:松田義幸氏の報告「アメリカ・アスペン・リゾート研究」に引かれたアドラー氏の本より。
This Prewar Generation 1940, Mortimer J. Adler, “Reforming Education: The Opening of American Mind” Collier Books and Macmillan Publishing, 1990.