ほぼ日の学校長だよりNo.49
「中村梅丸さんをお招きして」
前回のメールマガジンに対して、思いがけないほどの反響がありました。「熱海殺人事件」の再演(2015年12月)で、「きょう、ママンが死んだ」のセリフがなかったのはドカーンと衝撃でした、という同じ感想もあれば、カミュの『異邦人』は決して読書界からフェードアウトしたわけではありません、という力強いコメントもありました。
『異邦人』が新潮文庫に入ったのは1954年9月で、現在132刷、累計4,179,000部で、新潮文庫歴代売り上げ第5位だとか。1976年に始まった毎夏の「新潮文庫の100冊」フェアでも43回連続で選ばれており、超優良タイトルです。
「新潮文庫の100冊」といえば、糸井さんが1984年に生み出した「想像力と数百円」というショルダーコピー(枕コトバ)が有名です。同じ年に糸井さんの作ったキャンペーン用の宣伝コピーは「100冊ぜんぶ読むと、とんでもないことになると思う。」でした。以来、1996年まで、糸井さんのコピーが毎夏のキャンペーンを彩りますが、「インテリげんちゃんの、夏休み」(1985年)がとりわけ有名ですね(こちらを参照)。
書店店頭での文庫フェアが普及する以前は、「新潮文庫ベスト100」などのキャッチフレーズがついた夏のキャンペーン広告をやっていたそうです。どういう本が選ばれていたか、1961年以降を一覧表にしたサイトがあることを教えられました。
http://www.geocities.jp/technopolis2719/9810sin.htm
すごい労作です。「採用作品の変遷(1961〜2018)」をクリックして「海外の作家」の「カ」を調べると、カミュは1961年に登場して以来の常連です。1969〜71年には「ベスト100」の中に4作品(!)が選ばれ(1つはサルトルらとの共著『革命か反抗か』)、少なくとも1974年までは『異邦人』と『ペスト』の2枚看板時代を築いていたことがわかります。
さすがにピークアウトしたかもしれませんが、フェアが続く限り、今後も書目から外されるとは考えにくいので、カミュが「忘れ去られつつある」と言い切るのは、まだ少し早いようです。ファンとしてはあわよくば復活を、と願いますが、『異邦人』の生命力の強さを改めて知らされた気がします。
さて、この話はこれくらいにして、今回は歌舞伎役者・中村梅丸さんをお呼びした「Hayano歌舞伎講座」第3回の模様を少しご紹介しておきます。これまでとちょっと様子が違ったのは、授業が始まる前、教室の席が“かぶりつき”からどんどん埋まっていったことでした。若い人気俳優のゲスト出演とあって、格別の期待感が集まるのは当然です。
「僕はこうやって歌舞伎役者になりました」――早野龍五さんが聞き手になり、「一般家庭に生まれた梅丸さんが、なぜ歌舞伎役者になりたいと思ったのか。その夢をどうやって叶えたのか」をじっくり伺いました。
一般家庭というのですが、実はご両親ともに本や雑誌の編集者。お父さんは私にとって長年の畏友であり、お母さんにも私の関わった本を文庫化していただいたことがあります。噂にのみ聞いていたご子息とじかに会うのは初めてなので、少しドキドキしながら控えていました。
1996年東京生まれ。歌舞伎好きの母親に連れられ、初めて歌舞伎座に行ったのが2歳頃だったとか。そのあたりから21歳の現在(2日後が22歳の誕生日でした)まで、実に濃密な1年1年の記憶を、ユーモアをまじえながら、落ち着いた口調で、しっかり答えていく態度に驚嘆しました。
小さい頃は、ウルトラマンか、電車の運転士か、歌舞伎役者のどれかになりたかったという少年が、小学1年生の5月に新橋演舞場の「東(あずま)をどり」を見に行ったところで思いがけない転機を迎えます。あらかじめ手渡されていた撒き手ぬぐいを使って、演舞場のロビーで幕間(まくあい)に、好きな「切られ与三郎」の真似事をしていたそうです。
すると、それを見ていた80歳くらいの女性から、「あら与三郎じゃないの」、「頬かむりはこうするのよ」と声をかけられ、「よかったら、踊りのお稽古に来てみない?」と誘われたというのです。本人も母親も驚きました。実はそれが、踊りのお師匠さんの花柳福邑さん。これが縁で、歌舞伎座の真裏にある稽古場に通うようになりました。
ほどなくお師匠さんが当時の歌舞伎座支配人とたまたま話をする機会があり、支配人の仲介で、現在のお師匠である中村梅玉さんにお会いする運びになります。それが翌年3月のこと。わずか9ヵ月のうちに、大きく運命が変わったのです。
見習いとして梅玉さんのもとに通い始め、憧れの世界に胸をときめかせているうちに、2005年1月、初舞台のチャンスが訪れます。『御ひいき勧進帳』(国立劇場)で、富樫(とがし)の太刀持ちの小姓役でした。15分間、セリフもなく、じっと坐っているだけの役。目をキョロキョロさせてもいけません。それでもただただ楽しくて、嬉々として出ていたというのです。
それから部屋子(へやご)として、歌舞伎に必要な芸事、行儀作法を学ぶ日々が始まります。翌2006年4月、梅玉師匠の養父にあたる6代目中村歌右衛門5年祭に中村梅丸の名前をもらい、部屋子披露を迎えます。10歳になる年の春でした。舞台が好きで好きでたまらなかった少年の様子が、手に取るように伝わってきます。
ここから21歳の現在まで、小中高の学業と両立させながら、芸の精進に励んできました。大学に進学するかどうかは一つの岐路でしたが、「行けるなら行ってごらん」という師匠のひと言もあって、ともかく受験。1月は歌舞伎座と浅草公会堂の掛け持ちがあり、受験の月だけ舞台を休むという、かなりスリリングな受験生を演じます。
結果は合格。ところが、4月は名古屋の中日劇場で『雪之丞変化』に出演することが決まっており、大学の授業はいきなり1ヵ月休むという、華々しい(?)キャンパス・デビューになりました。
大学に入ったら、近世文学を勉強したいと思ったそうです。いまの「古典」歌舞伎が新作として誕生した頃のことを知りたい、というのが動機だったとか。なかなか舞台が忙しくて、それまでのような両立は難しい、と感じている様子もうかがえました。
昨年、「そろそろ受けたら」と梅玉師匠に言われ、名題(なだい)試験を受けて名題適任証を取得しました。歌舞伎の世界での昇進試験で、基礎知識(60点)と作文(40点)の筆記、そして実技があります。問題は大幹部といわれる方々が作成し、実技の審査も行います。
実技は、立役(たちやく・男役)で受験したそうです。いまのところ、立役も女形も両方こなす梅丸さん。「立役をやっていると女形がやりたくなる。女形をやっていると立役がやりたくなる」そうで、梅玉師匠が立役一本、弟の中村魁春さん(ともに6代目中村歌右衛門の養子)が女形一本ということで、両方から学べる恵まれた環境にあることも幸いしています。
バランスよく演じ分けているわけですが、いずれどちらかを、と選択を迫られる時期がくるでしょう。その時は、自分の気持ちはさておき、「お客様がどちらを見たいと思ってくださるか。求められて初めて舞台で演らせていただけるので、そちらが大事になってくるでしょう」と。
ふだんから師匠に注意されているのは、一門の教えとして「行儀よく」の心得だそうです。語り口を聞いていて、感心したのが品のよさ。師の規矩(きく)正しい品格を素直に受け継いでいると感じました。師との出会いはまさに“縁”です。踊りのお師匠さんにたまたま声をかけられた偶然から、“縁”に導かれてここまで来ました。類まれなる強運を引き寄せる何かがあったのだと思います。
梅玉さんからは、「歌舞伎座のスケールに合った、大きな役者にならなければいけないよ」と言われているそうです。器用にやろうとして、こせこせ小さくまとまらないように、と常々教えられているとか。役の「性根(本質)」をしっかりと見据え、独りよがりにならないように、一緒に出ている皆さんのご迷惑にならないように、という芸風も、こうして受け継がれていくのでしょう。
受講生からの「どうすれば子どもが歌舞伎を楽しめるようになるでしょうか」という質問に答えた姿も印象的でした。
自分は2歳の時に初めて歌舞伎座に連れてこられて、セリフも聞き取れないのに、なんとなく理解して楽しんだ。海外からのお客様も、イヤホンガイドがあるとはいえ、おそらく視覚的な情報で楽しんでくださっているのだと思う。歌舞伎の演出は、そういうふうによくできている。音楽もそれを補ってくれる。だから、大人が先回りして、歌舞伎の知識を子どもに教え込むのではなく、テーマパークに遊びに行くように、子どもに任せてしまったらどうだろう? 分からないことがあれば、自分から質問するだろうし、本人が好きに楽しめばいいのではないか、と。
まさに、こうして真っ直ぐに、すくすく育ってきたのが梅丸さんでしょう。役者が着実に成長していく姿を見るのも、歌舞伎見物の楽しみです。今回、講座にお招きしたことを、いろいろな意味で良かったと感じた夜でした。
2018年9月20日
ほぼ日の学校長
*9月14日に一般販売を開始した「たらればさん、SNSと枕草子を語る。」(10月29日、浜離宮朝日ホール)は、キャンセル分も含めて完売となりました。さらにキャンセル分が出ましたら、ツイッターでお知らせいたします。ちなみに今回の講座は、後日ほぼ日の学校オンライン・クラスで配信予定です!
*劇団☆新感線「メタルマクベス」ライブビューイング(10月4日)へのご招待は、おかげさまでたくさんのお申込みをいただいています。受付は9月25日(火)午前11時までです。定員数に限りがあるため、抽選の上、当選者にはご連絡させていただきます。