2018年1月、
ほぼ日の学校が始動しました。

これからいったい、
どういう学校に育っていくのか。

そのプロセスの出来事や、
学校にこめる思いなどを、
学校長・河野通和が
綴っていきます。

ほぼ日の学校長

河野通和(こうの・みちかず)

1953年、岡山市生まれ。編集者。

東京大学文学部ロシア語ロシア文学科卒業。

1978年〜2008年、中央公論社および中央公論新社にて
雑誌『婦人公論』『中央公論』編集長など歴任。

2009年、日本ビジネスプレス特別編集顧問に就任。

2010年〜2017年、新潮社にて『考える人』編集長を務める。

2017年4月に株式会社ほぼ日入社。

ほぼ日の学校長だよりNo.129

禅僧とは畢竟、“宿無し”である

 前回、スティーブ・ジョブズのことがふと頭に閃(ひらめ)いたのは、この本が机の上にあったことも一因です。柳田由紀子『宿無し弘文(こうぶん)――スティーブ・ジョブズの禅僧』(集英社インターナショナル)です。

koubun

 前から読みたかった本だから‥‥そう思って、早速ページを繰り始めると、夢中で一気に読了しました。近年味わったことのないおもしろさ! まだ頭の中がボーッとしている状態です。

 前回も触れたジョブズの有名なスタンフォード大学でのメッセージ――「Stay Hungry. Stay Foolish.」(ハングリーであれ、愚直であれ)の名言は、60年代末のカルト雑誌「全地球カタログ」(Whole Earth Catalog)の最終号で、背表紙を飾っていた言葉です。中国唐代に著された禅の経典『宝鏡三昧(ほうきょうざんまい)』から引いたといわれます。

 「コツコツと愚直にひとつのことを続ける人がもっとも強い。形あるものは必ず滅びるのだから、命あるうちに精進し一瞬の生を最大限生きよ」という教えです。

 スピーチで、ジョブズは次のようにも語っています。

<私は毎朝、鏡に映る自分に問いかけます。もし、今日が人生最後の日だとしても、今からしようとすることを私はしたいのだろうか?>

 こうした自らへの問いかけに、多くの人が禅の影響を認めます。アメリカの老舗出版社フォーブスが、2011年のジョブズの死後に『THE ZEN of STEVE JOBS』というイラストブックを緊急出版したのも、そうした関心に基づきます。そして、この本の刊行でにわかに注目を集めたのが、ひとりの日本人僧侶です。

 禅の思想に傾倒したジョブズが「生涯の師」と仰ぎ、30年にわたって魂の交流を続けた格別な存在。それが、本書の主人公である乙川弘文(おとがわこうぶん)という禅僧です。

konseki(c)Nicolas Schossleitner

 この日本版『ゼン・オブ・スティーブ・ジョブズ』(集英社インターナショナル、2012年)の翻訳を手がけたのがきっかけで、著者の眼前に、突如として出現したのもこの人です。

zen

<この本の翻訳を通じて、私は、ジョブズが自らの婚礼の式師(しきし)を弘文に頼んだことを知った。ジョブズは、気むずかしく、プライベートを徹底的に守ったことで有名だった。そういう人が大事な挙式をまかせるとは、二人の結びつきの深さが偲ばれた。
 もともと私は、アップル製品の簡潔で美しいデザインや、直截的な使いやすさに敬意を抱いていた。アップル愛好者でもある。反対に、禅については、否、仏教そのものについてはお経のひとつも知らないほど無知だったが、無知なればこそ、ジョブズに影響をおよぼしたという乙川弘文に興味を抱いた。>

weddingジョブズの婚礼は、
乙川弘文が禅宗様式で執り行った。
二人を祝福する弘文
(映画「Steve Jobs The Man in the Machine」2015年より)

 ところが、その時、弘文はすでにこの世になく(2002年没)、また彼の生き方は、かつて水上勉さんが記したように、

<まことに禅の世界は、奇妙なところがあって、‥‥傑出した僧侶ほど、表面に出ることをきらい、身をくらまして生きた。>(『良寛』、中公文庫)

ryokan

 を地で行くような、つかみどころのない“風来坊”であることがわかってきます。「どこまでできるかわからない、けれど、できるところまで弘文をめぐる旅を続けよう」――こう決意して取りかかった取材は、なんと足かけ8年に及びます。アメリカ、ヨーロッパ、そして日本をめぐり、31人の人から貴重な証言を得て、ようやく見えてきた乙川弘文の実像とは?

 分析的な解釈や記述をあえて避け、関係者の証言をして語らしめるドキュメンタリーの手法に徹します。それを臨場感豊かに再現し、上質なロードムービーを観るような知的興奮をもたらします。

 インタビューでの息づかいや驚きが、そのまま反映されている筆致に乗せられ、ともに旅し、人に会い、徐々に姿を現してくる主人公の佇(たたず)まいに、息をこらし、目を見張り、そして粛然として読み終える、実にドラマチックな作品です。

 禅僧としての弘文の出発は、バリバリのエリート修行僧でした。新潟県加茂市の名刹「定光寺」(じょうこうじ)に生まれ、13歳で得度し、駒沢大学を卒業後、京都大学大学院で仏教学を専攻します。修士課程を修了すると、27歳で曹洞宗の大本山、福井県の永平寺に上山(じょうざん)します。

 やがて特別僧堂生(将来、修行道場の指導者となるべく特別に養成される雲水)に推挙され、永平寺第78世貫主、宮崎奕保(えきほ)老師からも目をかけられ、宗門の期待を一身に集めるような存在になります。

03(c) Nicolas Schossleitner

<弘文さんは孤高の人、雲の上の存在でした。‥‥寡黙だったけれど、話す時は京都学派そのもの。沈思黙考(ちんしもっこう)の上、論理的に諄々(じゅんじゅん)と説くといった感じでした。それでも、高慢ちきだったり嫌みだったりはしないんです。誠実で飾り気なく真っすぐな人でした。>(永平寺雲水時代の同期)

 書をよくし、お経を誦むのも天下一品。学識も豊かで、「生涯不犯(ふぼん)を通す」とまで老師に誓った弘文に、1967年、29歳で思いがけない転機が訪れます。

 サンフランシスコ近郊(タサハラ)に創建された、北米初の本格的な禅の修行道場を運営する日本人僧侶として、弘文に白羽の矢が立ったのです。

 時は1960年代、アメリカ西海岸はヒッピー・ムーブメント、カウンターカルチャー(反体制文化)が全盛でした。自国第一、物質文明礼讃、キリスト教一辺倒だった親世代の価値観に異議を唱え、ティーンエイジャーたちは新たな精神世界の探求に目覚めていました。

 1955年生まれのスティーブ・ジョブズが、後にシリコンバレーと呼ばれることになる街へ転校してくるのは、弘文が渡米する前年、1966年のことでした。

 その頃の弘文を語る米国人住職の証言です。

<弘文と鈴木老師(タサハラの修行センター創建者=引用者註)は、二人とも日本式を押しつけないところが似ていましたね。
 ただ、弘文のほうがうんと芸術家肌でした。弘文は気品があって審美的、聡明なのに赤ん坊のように無垢。そのぶん浮世離れしていて、そうね、“雲”みたいな人だった。仏教ではしばしば<空(くう)>を説きますが、弘文自身が“空の人”でした。一種の天才です。>

<弘文は、僧侶というより芸術家。
 ヒエラルキーやルールがとことん嫌いで、本当にリベラルな人でした。その一方、日本の寺院できっちりと習得した所作は優雅で、見ていてうっとりするほどだった。そんな彼に僕は惹かれ、その後六年間そばで修行しました。僕にとって弘文は、優れた師匠であり、厳しい叔父、愛すべき兄のような存在でした。>(弘文の元弟子、米国人心理療法士)

<とにかく、弘文に逢った人は、弘文を好きにならずにいられない。なぜなら、弘文自身が誰もを愛したからです。
 ええ、女の人たちからも愛されましたよ。‥‥弘文が渡米直前まで修行していた永平寺とタサハラのいちばんの違いは、タサハラには女性の修行者がいたことです。そして、彼女たちから弘文は半端じゃなくモテた。誘惑も多かったでしょう。
 それに対して弘文は無防備すぎました。そのため、僧侶としてのモラルと葛藤したんでしょうね、山小屋に籠もってしまったのです。扉を叩いても返事をしないし、ちょっとした事件でした。引き籠もりは一カ月くらい続きましたか。>(先の米国人住職)

womanPhoto:Courtesy of Vanja Palmers

 激賞と酷評。弘文に対する毀誉褒貶が、くっきり分かれるのはこのあたりです。「破戒僧」――仏徒として、女犯(にょぼん)などの不道徳な性に溺れ、酒にも溺れ、という戒律破りの批判です。

 実際、2度の結婚(米国人女性、そしてドイツ人の年若い女性との“できちゃった婚”)に加え、長く同棲した女性アーティストがいたことは確かです。しかし、弘文が俗にいう女たらしではないばかりか、彼の女性遍歴を知る人物は、“難儀”と思われる女性をそうと知りながら受け入れた弘文を、「まぁ、それが弘文の業(カルマ)だったんでしょう」と評します。

family幸福だった頃の弘文一家。
70年代前半、ロスアルトスの自宅にて
Photo: Courtesy of Harriet Buffington Chino

 離婚した最初の妻は、弘文の資質をこう語ります。

<‥‥弘文は絶対にノーと言わない人だった。と同時に、実に聞き上手で、目の前にいる人の痛みを、我が事のように感じることのできる人でもありました。相手の相談には、いかなる時も、自分の身体を通した誠実な言葉を慎重に選んで答えていました。これは、弘文の極上の資質です。>

 弘文の弟子でもあるチベット仏教徒も語ります。

<弘文ほど親切な人は、この世にいませんよ。たとえば弘文は、物乞いされると財布ごと渡してしまうといったふうでした。だから、本人はいつもお金に困っていましたが。自分も弘文のように親切な人になりたくて、それで弘文に惹かれたのだと思います。>

<人には誰にも、仏教でいうところの<利他(りた)>、つまり、他人の役に立ちたいという願いがあるものです。ところが、弘文の場合はこれが徹底していて、自分のことより何よりまず利他が優先されるのです。その点、“現代の菩薩様”みたいな人でした。
 弘文は、こんなことを言っていました。
 「私は、木々を飛び回る猿だ。この猿は、木の上から救いを求める人を見つけると、飛び降りて、抱きしめ、放さない」>

01(c) Nicolas Schossleitner

 さて、スティーブ・ジョブズと弘文の交流ですが、ジョブズの親友、ビル・フェルナンデスは断言します。

<若きスティーブにとって、テクノロジーの師匠は「インテル社」の創業者、ロバート・ノイス、心の世界の師匠は弘文だったね。>

 「現実歪曲フィールド」と評されるほど唯我独尊のジョブズにとって、弘文だけは師(メンター)と仰ぐ別格の存在でした。「ヨーロッパにて弘文死す」の知らせに、電話口でジョブズはさめざめと泣きます、「なぜ?」「どうして?」とつぶやきながら。

<僕は、弘文とスティーブの会話を聞いたこともあるよ。スティーブは、事業について訊くことが多かったな。/アップルが成功してからは、/「会社を大きくしてもいいか?」/なんて質問もしていた。/意外でしょ?>(ビル・フェルナンデス)

 「永平寺で修行したい」と言うスティーブに、弘文は「ここにないものは永平寺にもない。シリコンバレーにとどまれ」と答え、「修行を続けながら実業家になるといい。事業と精神世界は矛盾しない」と告げたといいます(同)。

<‥‥文化的背景も性格も行動パターンも彼と正反対だったから、磁石みたいに引きつけられたというのがひとつ。もうひとつは、弘文の常人にはない能力、簡単に言うと超能力にスティーブは畏(おそ)れを抱いたんだと、私は確信しています。>(最初の妻)

<スティーブは禅を真剣に捉えていたし、禅の智慧を採り入れ、禅によって集中力を高めたと思います。‥‥スティーブが、弘文から禅の真髄を学んだことはまずまちがいない。>(元ネクスト社エンジニア)

<‥‥アップルならではの書体への情熱は、書道からインスピレーションを受けていると思います。スティーブは、大学時代に手書き文字、カリグラフィに興味を持ったようですが、書の名手だった弘文の存在が、その思いを強くさせたにちがいありません。>(同)

02(c) Nicolas Schossleitner

ウォルター・アイザックソンは著書『スティーブ・ジョブズ』の中で述べます。

<ジョブズの集中力もシンプルさへの愛情も、禅修行からくるものだ。彼は、禅を通じて直感を大事にする心を研(と)ぎすまし、不純、不要なものをすべて濾(こ)しきる方法を身につけ、そして、ミニマリズムに基づく美意識を育んだのだ。>

 ジョブズと弘文。二人がもっとも濃密に接したと思われるのは、1984年、弘文が46歳で最初の結婚に失敗し、翌85年、30歳を迎えたばかりのジョブズが、自らの心血を注いできた会社アップルから、「驕慢に起因する経営不振」を理由に追放された、ともに失意と挫折のさなかです。

 ジョブズが弘文の実家、新潟の定光寺を訪れたのも、弘文がジョブズの婚礼の式師を務めたのも、同時期です。おそらく出会うべくして出会った二人は、弘文がもっとも重きを置いた「只管打坐(しかんたざ)」――目的を持たず、ただただ坐る坐禅によって、「最初は心がざわつくがそのうちに直感が花開く」(ジョブズ)、「禅とは掃き清めること」(弘文)という、仏法の深遠な感覚をともに学び、それを生き抜いたのだと思います。

 弘文の背中をひたすら追って、彼の足跡をたどる長い旅を続けるうちに、弘文が全身を晒(さら)して見せた真正面の姿がやがて焦点を結んでゆく、この収斂の過程がスリリングです。

 最期は5歳の娘とともにスイスで不慮の死を遂げる弘文ですが、29歳で渡米した後は、山小屋に引き籠もるような懊悩(おうのう)と煩悶(はんもん)の果てに、自らの生き方を“反転”させます。「転依(てんね)」(人格の根本転回)し、その後は徹底した「受容の精神」で、「仏法(ぶっぽう)の塊(かたまり)」となって、その真髄を追い求め、真剣に、誠実に生き切ろうとした彼のスタイルが見えてきます。

 8年におよぶ取材と思考が一気にスパークしたかのような終盤の緊迫感。私生活では、「自ら“願って”地獄に堕ちた」満身創痍の弘文と、一方でいかにも弘文さんらしい最終章は、この傑作をひときわ感銘深いものにしています。

 「泥中(でいちゅう)の蓮(はちす)」のごとき乙川弘文の人生を、鮮やかに描き出したノンフィクションです。

poster没後十周年の法要を告知するポスター。
背負っているのは末子のアリョーシャ

 個人的には、作品内にも引かれた水上勉『良寛』の連載担当をしていた頃、水上さんから伺った禅の高僧、傑僧のさまざまな逸話が蘇りました。

 弘文を「日頃は良寛さん、こと女に関しては一休さん」と評した人もいましたが、「雲のごとく定マれる住処もなく、水のごとく流れゆきてよる所もなきを、僧とは云フなり」(道元『正法眼蔵随聞記』)とあるごとく、「禅僧とは畢竟(ひっきょう)、“宿無し”であってしかるべき存在なのだ」という著者の喝破(かっぱ)が、水上さんの声となって聞こえてきました。

2020年6月18日

ほぼ日の学校長

*都合により来週は休みます。次回の配信は7月2日です。