ほぼ日の学校長だよりNo.87
井上陽水の「余白」の世界
ここしばらく『百人一首』づいていました。ちょっとした必要もあって、橋本治さんの現代語訳(『百人一首がよくわかる』、講談社)と、ピーター・J・マクミランさんの英訳『英語で読む百人一首』(文春文庫)を、ほぼ同時並行的に読んでいたのです。
おもしろい経験でした。原典とそれぞれの訳のあいだを行ったり来たりしながら、歌の解釈の微妙な違いに目をひらかれました。よく知っているつもりだった『百人一首』の歌の表情が、やわらかに揺らぎ、見方が少し深まったような気がします。
ちょうどそんなときに、書店で目に飛び込んできたのが、ロバート・キャンベルさんの『井上陽水英訳詞集』(講談社)です。手にとって、パラパラと眺めるうちに、これは読まないわけにはいかない、と直観しました。
帯に「井上陽水デビュー50周年」とあります。陽水さんの歌と私の出会いは、1972年、大学に入った年です。『断絶』がリリースされ、「傘がない」が大ヒットしました。その後も、アルバムが出るごとに聴き続けてきました。
ところが、このミュージシャンを論じた著作というと、竹田青嗣さんの『陽水の快楽』(河出書房新社、1986年)が思い浮かぶくらいで、あとは沢木耕太郎さんの「わからない」(『バーボン・ストリート』所収、新潮文庫)といったエッセイ、音楽評論家・黒田恭一さんの短い井上陽水論、海老沢泰久さんのノンフィクション小説『満月 空に満月』(文春文庫)など、わずかばかりです。
たんに気づいていないだけかもしれませんが、これほど親しまれ、ヒット曲を数多く生み出した人のわりには、本格的に論じられることが少なかったのではないか、という気がします。
本人が自作について多くを語らないのもひとつの理由ですが、より本質的には、
「井上陽水はうなぎだ」
というひと言が、すべてを言い尽くしているかもしれません。キャンベルさんは、まずそこから論を始めます。
<「井上陽水はうなぎだ」
これ実は、私が心から敬愛するユーミン(松任谷由実さん)が発した言葉です。ユーミンと陽水さんは言わずと知れた親友同士。だからこその、けだし正鵠(せいこく)を射た表現と言えましょう(私には畏れ多くて、とてもとても)。
うなぎは逃げる。なかなか捕まえることができません。透明で粘着質の膜でぬるぬると覆われた皮膚だから、捕まえたと思ってもするすると。いい加減なのかまじめなのか、ペロッと舌を出しながら、桶の中にドボンと帰ってしまう。>
本人の照れや自己韜晦(とうかい)癖もありますが、くねくね動く「うなぎ」のように、とらえどころのないのが井上陽水です。歌詞についても、まったく同様。わかりやすい言葉が使われているにもかかわらず、主語が省かれていたり、時制が曖昧にされていたり‥‥。
そういう「余白」が多いぶん、よけいに想像力をかきたてられる井上陽水の歌の世界。そこへ分け入って、これを賞味し、読解し、さらに他言語に置き換えようというのですから、キャンベルさんの“覚悟”は並大抵ではありません。二人の意外な組合せにも、なんだかワクワクさせられます。
キャンベルさんといえば、米国出身の日本文学研究者で、江戸時代の古典を専門にしています。かたわら、NHK(Eテレ)の語学番組「Jブンガク」で、『枕草子』、『奥の細道』から川上弘美、江國香織までの幅広い作品を、日本語と英語の両方で読み比べるなど、日本文学の新たなガイド役を務めてきた人です。
予想に違わず、キャンベルさんの持ち味を発揮して、陽水さんの歌詞の深さとイメージの広がり、「余白」の豊かさをたっぷり論じた一冊です。「英訳詞集」と書名にありますが、陽水さんの代表的な曲から50作品を厳選し、日本語原文と英訳の両方を並べた対訳詞集は、本書の後半部分です。
前半は、著者と陽水さんとのスリリングな対話を要所に折り込みながら、どのようにして英訳がつくられていったのか、そのプロセスを詳しく語ります。
これまで井上陽水ならではの声とメロディーにのせられて、なんとなく受け入れ、馴染んでいた歌詞(言葉)の世界が、英語というフィルターを通すことによって、より鮮明に照らし出されます。
大ヒット曲「夢の中へ」は、「探しものは何ですか?」のフレーズで始まります。歌詞は二人称で書かれ、時制をはっきり示す言葉はありません。
© フォーライフミュージックエンタテイメント
<「探しもの」は、英語ではいったい何なのだろう。落としものはlost objectsです。ところが「探しもの」はまだ見つけていない。見つかったならば found objects になるのだけれども、探しものは今探そうとしているわけです。つまり、lost objectsとfound objectsのあいだの「探しもの」の英語。それを探し出せたら私の悩みは解決するのです。
What is it you’re looking for? >
さらに「夢の中へ」と誘っている夢は、いったい誰のものなのか?
<日本語では、属人的な言葉を添えなくてもイメージが浮かびます。時とか人、ひとりかふたりかはわからなくても、「夢の中へ」と言うと、ぽーんと夢の中へ、私ひとりでも、あるいはみんなで飛び込んでいける、溶け込んでいくことができます。>
キャンベルさんは「Into our dreams」と、ourを加えます。
名曲「いっそセレナーデ」の「いっそ」とは、そもそもどういう意味なのか?
<私の英訳を読んだ陽水さんから、「タイトル“A Just-so Serenade”のどこに『いっそ』が入っているのでしょうか?」と指摘をいただきました。「『いっそ』が僕にとって大事なのです」と。「『いっそ』というのは、優しさなんです。セレナーデ(小夜曲)の持っている優しさですね」>
キャンベルさんは「その疑問はごもっとも」と言いながら、
© フォーライフミュージックエンタテイメント
<でも陽水さんの「いっそ」も、それ自体「優しさ」を押し出しているのではなく、デリケートな、少し謎めいた表現でした。「ソ」「セ」とサ行が続く音の柔らかさに加えて、「セレナーデ」が予想させる甘い曲調から私たちは「優しさ」を感じ取ります。なので、英語でも優しいことは明示しないでA Just-so Serenadeにしたのです。Just-soのsoだと原詞の「いっそ」の「そ」とつながり、just-so=「丁寧で、慎重な態度」という意味のうえでも相性がよいと考えたのです。>
これを歌っているのがI=私なのか、We=私たちなのかも、はっきりしていません。キャンベルさんが問いかけると、陽水さんは答えます。
<陽水 いや、さすがですね。僕は今まで三十数年、この歌とつきあっていますけれども、これはひとりで歌っているのか、ふたりで歌っているのかなんて考えてみたことなかった。でも、確かにこれは「浮かべて 泣こうか」とか「探してみようか」とか、ふたりの感じはちょっとありますね。>
結局、主語は「I」にするしかないかな、とキャンベルさんは決断します。が、これとて唯一絶対の「正解」だというわけではありません。
「夢のあいだに 浮かべて 泣こうか」の「夢のあいだ」は、夢その1と夢その2のあいだなのか、それとも、ひとつの夢のあいだなのか。in the space between our dreams としますが、これについても余地を残します。
<RC(ロバート・キャンベル、引用者註) ‥‥僕は井上さんの歌詞のいろいろな木立の中を歩きながら、1本でも2本でも根っこを越えてクリアにできればいいと思ってお目にかかっているんです。(略)
陽水 ますます謎が深まっていなければいいんですけど‥‥。
RC 多分それは次の段階で、今日生まれる新たな揺れや戸惑いがあると思うんです。>
<「翻訳」という言葉が持つイメージの中に、説明的、できるだけ逐語的にひとつひとつ置き換えて、スイッチバックしていくというものがあるでしょう。しかし文学的なものは、最初から多重性を帯びていて、文字面の意味だけではないのです。音であったり、リズムであったり、多くの要素が絡み合っていて、意味がすんなりわかるよう構築された時空ではありません。>
こうして50曲の英訳は、楽曲に合わせて歌える歌詞ではなく、まず読むための英訳=「読訳」として仕上げられます。「なんとか歌詞のエッセンスを一滴もこぼさず読者に届けたい」と願って、歌詞世界のリアリティを重視した企てです。
それだけに、井上陽水の歌詞がもつ「余白」や「曖昧さ」が、英訳という作業によって喚起され、新たな気づきや驚きをもたらします。
恋の歌である「覚めない夢」は“The Dream Goes on(夢は続く)”のタイトルになります。そして、河野多恵子さんの小説「骨の肉」や、夏目漱石『吾輩は猫である』、『和泉式部日記』などが参照されます。
<私たち現代人は、夢はいいものだと思っています。夢とは希望であり、スポーツの取材や高校の校歌でもしばしば「夢は大きく」などというフレーズが出てきます。
しかし、夢は人偏をつければ「儚(はかな)い」となって、明治時代より前は過ぎ去ったもの、実在したものの面影、この世にいないものに思いを寄せることと考えられていました。
つまり夢は偲(しの)ぶもの。しかし、この「偲ぶ」を英語の一言で説明するのが難しい。(略)
陽水さんの「覚めない夢」も、偲びの夢。(略)歴史上の、日本の風土や仏教的な文脈の中から生まれ育まれたものなのです。陽水さんの「夢」はいつでもその文脈につながっていると思います。>
© フォーライフミュージックエンタテイメント
このように、「陽水さんの詞は日本前近代の長い歴史の文脈につながる」文学として位置づけられます。
「ダンスはうまく踊れない」の歌で、「私」はひとりきりで踊ろうとしています。その場に恋人はいません。ダンスはふたりで踊るものなのに、ネコしかいません。だから、うまく踊れません。
<これも「焦がれる」恋の歌です。日本の「恋歌」というのは「相手が(ここに)いない」という設えが基礎としてあるのではないでしょうか。(略)あなたがいないことがとても重要です。‥‥恋人がいると恋にならないのです。>
<女は記憶の中の男にリードされながら踊っている主人公です。不思議な、身体性のあいまいな、脱色され、夢のように揺れているような美しさが、陽水さんの世界にある、愛の真骨頂だと思います。>
キャンベルさんは1979年、21歳のときに初来日し、そこで井上陽水の歌と出会います。6年後、九州大学文学部研究生として再来日。福岡の街の風景に重ねて、「リバーサイドホテル」を聴きます。東日本大震災のあった2011年の夏は、病院のベッドで陽水さんの歌をひたすら聴きます。重い感染症を患い、死の淵に立たされながら、約6週間、「外出も許されず、病室の淡い空色に塗られた天井を見つめていたら、ふと井上陽水さんの歌詞が再び浮かんだのです」。
© フォーライフミュージックエンタテイメント
そして一日1曲、英訳を試みます。「一日1曲、陽水さんの歌詞世界に深く降り立つことが次第に心の糧になっていきました」。
50曲の英訳を終えたいまキャンベルさんは、「人間として生まれるとこうなの?」という陽水さんの歌の問いかけに、「しばらく思いをめぐらしながら生きていこう」と結んでいます。
2019年6月27日
ほぼ日の学校長
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