ほぼ日の学校長だよりNo.6
「揺さぶって、突き刺す」
先週は「ほぼ日の学校」にとっていろいろなことが重なりました。17日(火)に学校のWEBサイトが立ち上がり、来年1月16日から始まる「シェイクスピア」講座の受講生募集が始まりました。おかげさまで、すでに多数のお申込みをいただいています。
そして翌18日。毎週水曜日の定例ミーティングの冒頭の時間を使って、講義の予行演習を行いました。「本番さながらに」とお願いして、「シェイクスピア」講座のトップバッターを務めるシアターカンパニー・カクシンハンの演出家の木村龍之介さんに模擬授業を1時間やっていただきました(当初は30分の予定でしたが、気がついたら2倍の熱血講義になっていました!)。
受講生は、ほぼ日乗組員です。糸井さんも最前列で聴講し、授業終了後は急遽(きゅうきょ)、木村さんと糸井さんのミニ・トークセッションが行われるなど、本番に向けたテストとしては大成功でした。朝からシェイクスピアで盛り上がっているのは、日本広しといえども、いや世界中見渡しても、きっとこの会社だけなのではないか、と思える濃密なひと時になりました。
「貴族諸卿、私の権利の擁護者よ、
武器をとって私の正義の主張を守ってくれ。
同胞諸君、私を慕ってくれる忠義の士よ、
剣を抜いて私の帝位継承権を弁護してくれ」
シェイクスピア初期の悲劇「タイタス・アンドロニカス」の冒頭のセリフが、カクシンハン俳優ののぐち和美さんから発せられます。その瞬間の、ドーンと体全体に響いてくるような衝撃。目の前で聞いていた糸井さんが思わずのけぞったように見えました。
「ローマ人よ、友よ、私の権利を支持する味方の諸君、
先帝の息子たるこのバシエイナスがもし
ローマ帝国市民の目に王者の器と映るなら、
神殿に続くこの道を死守してくれ、
不名誉を帝王の座に近づけてはならない。神聖な玉座は
美徳、正義、節操、高潔の在処(ありか)なのだから」
(いずれも松岡和子訳、シェイクスピア全集12『タイタス・アンドロニカス』ちくま文庫より)
代わって、真以美さんの張りのある声が“教室”に響きます。8月にカクシンハンの公演でこの芝居を観た時のことが呼び起こされます。戯曲の言葉はやはり、肉声にのせられて初めて生命を吹き込まれる気がします。
ともあれ、快くリハーサルに応じてくださった木村龍之介さん、一緒に参加してくださった俳優ののぐち和美さん、真以美さん(同行してくださった岩崎MARK雄大さん)らに深く感謝申し上げます。次の公演「ロミオとジュリエット」の稽古が、その後に控えていたと思うのです。
ところで、木村さんと糸井さんとのミニ対談でおもしろかったのは、シェイクスピアという名前が「shake(揺さぶる)」と「spear(槍などで突き刺す)」の組み合わせになっているというエピソードです。木村さんが紹介してくれました。よくできた話です。
これに限らず、シェイクスピアにはさまざまな逸話や「謎」がつきまといます。
最たるものは、ストラットフォード・アポン・エイヴォンという田舎町出身で、たいした教育も受けなかった役者風情(ふぜい)に、あれほど語彙が豊かで教養あふれる「偉大なシェイクスピア作品」が本当に書けたのか(書けるはずがない)、という疑念です。別人説を映画化した「もうひとりのシェイクスピア」(2011年)という作品がありました。『7人のシェイクスピア』というハロルド作石さんの人気漫画もあります。
作品の中でたくさんの人を殺したシェイクスピアが、1564(ヒトゴロシ)年に生まれ、1616(イロイロ)年に没したというのも、日本人にとっては、あまりにできすぎた語呂合わせです。当時また、ある劇作家に「成り上がり者のカラス」と揶揄(やゆ)され、蔑(さげす)まれた「劇団関係者」がいたそうです。シェイクスピアのことを指している、というのが定説らしいのですが、はたして本当にそうなのか……議論の余地があるみたいです。
といった謎解きは、木村さんに続く第2回、第3回でシェイクスピア研究者・河合祥一郎さんにたっぷり語っていただくことにして、先ほどのシェイクスピアという名前の件に戻ります。「揺さぶって、突き刺す」とは、まさにシェイクスピア劇の本質を言い表していると思うからです。
人間についての常識的なとらえ方、紋切型の解釈、硬直した思考法を思いっきり揺さぶって、俗説、通説のたぐいを次々に覆(くつがえ)していくのが、シェイクスピア作品の醍醐味です。
さらに、体系化・秩序化への志向をあえて裏切るような仕掛けをほどこし、矛盾したもの、未分化の混沌をそのまま出来事として観客に投げ出すのが、シェイクスピア劇の特徴です。
「ハムレット」「リア王」「オセロー」「マクベス」など、悲劇は登場人物の死に終わり、「ヴェニスの商人」「お気に召すまま」など、喜劇は結婚に終わると木村さんは解説してくれました。ただ、その分類自体は作者にとって、実はさほど大きな意味を持たなかったのではないか、と思われます。
というのも、悲劇には必ず喜劇的要素が、喜劇には悲劇的要素が内蔵されていて、共通するのは人間への飽くなき関心と、登場人物を否応なしに巻き込んでいく事件の予測不能な、ダイナミックな展開だからです。それが彼の作劇法(ドラマツルギー)です。
これまで初回のテーマにシェイクスピアを選んだのは、「ほぼ日の学校」にもっともふさわしい古典だから、という認識でしたが、ここで改めて思いました。上記のようなシェイクスピアの作劇法は、「ほぼ日の学校」の方法論として、この先も積極的に活用し、基本に据えてみてはどうだろうか―と。
「ほぼ日の学校」がめざす「学」は、体系化をめざす学問(アカデミズム)ではありません。思考を揺さぶって、身体で何かを感じとるための場づくりです。多様な見方、時には矛盾や衝突もおそれません。1月からの予行演習をしながら、そんなことを思っていました。
2017年10月25日
ほぼ日の学校長