2018年1月、
ほぼ日の学校が始動しました。

これからいったい、
どういう学校に育っていくのか。

そのプロセスの出来事や、
学校にこめる思いなどを、
学校長・河野通和が
綴っていきます。

ほぼ日の学校長

河野通和(こうの・みちかず)

1953年、岡山市生まれ。編集者。

東京大学文学部ロシア語ロシア文学科卒業。

1978年〜2008年、中央公論社および中央公論新社にて
雑誌『婦人公論』『中央公論』編集長など歴任。

2009年、日本ビジネスプレス特別編集顧問に就任。

2010年〜2017年、新潮社にて『考える人』編集長を務める。

2017年4月に株式会社ほぼ日入社。

ほぼ日の学校長だよりNo.67

「橋本治さんを偲んで」

◆作家の橋本治さんが昨日(1月29日)、逝去されました。謹んでご冥福をお祈りしたいと思います。

 一昨日、投函した出席通知のハガキに、ひと言添えたばかりでした。

 「橋本さんがお元気になられることを祈っています」

 4月7日に催される女流義太夫の演奏会で、橋本さんはトークをする予定になっていたのです。

 ハガキをしたためた24時間後に、まさかこんな文章を書くことになろうとは‥‥。

 とても残念でなりません。

 橋本さんとのことを書き始めればキリがありません。

 この1年半に限っても、ほぼ日の学校長として、節目、節目ですっかりお世話になりました。

 一昨年の12月22日、「ほぼ日の学校スペシャル ごくごくのむ古典」のイベントでは、「古典ひろいぐい」と題する講演をお願いしました。

 「古典ってめんどくさいんですよ、ほんとーに」というところから始まった橋本さんらしいシニカルな語りが、最後に私たちを案内したのは、「なんとまぁ橋本さんは、古典とたのしげに戯れていることか」という、羨ましくなるような世界でした。

 そんな芸当ができる人は、そんじょそこらにいるはずがない。

 これぞ橋本治だと再認識させられた夜でした。

橋本治さん

 年が明け、ほぼ日の学校の「シェイクスピア講座2018」が開講しました。

 橋本さんには第4回(2月27日)に登壇していただき、日本の演劇界とシェイクスピアについて語っていただきました。

 坪内逍遥が訳し、みずから音読して吹き込んだSP音源の『ヴェニスの商人』を一緒に聞いたことが思い出されます。

橋本治さん

 さっきからこの2つの映像をぼんやり観ながら思い浮かべたのは、

 「自分の頭で考えたいことを考えるためにするのが勉強だ」

 と語った時の橋本さんの表情です。

 励まされているような、たしなめられているような、おそらくその両方を含んだこのことばのなかに、橋本さんの厳しさ、誠実さ、温かさを感じたものです。

 昨年の秋、4ヶ月の闘病生活を終えて退院したことを知らせる長文のお手紙をいただきました。

 シェイクスピア講座に出ていただいた4ヶ月後、読売新聞に連載していた尾崎紅葉『金色夜叉(こんじきやしゃ)』のリメイク版「黄金夜界」がようやく完結したのとほぼ時を同じくして、6月末、橋本さんを襲った病魔は、さらに容赦ない試練の鞭をふるっていたことを知りました。

 作家デビュー40周年を期して刊行した『草薙(くさなぎ)の剣(つるぎ)』(新潮社) が、暮に野間文芸賞を受賞しました。

 贈呈式には欠席し、担当編集者によるメッセージの代読がありました。

 再入院の知らせは聞いていましたが、「少し持ち直したようで」と聞いたのが最後になりました。

 「作家が死ぬと時代が変わるよ」

 橋本さんに『窯変(ようへん)源氏物語』(全14巻)の執筆を勧めた中央公論社の故嶋中鵬二社長のことばです。

 このことばをめぐって、橋本さんと話をしたのは、一度きり。

 もっと話したかったテーマです。

 それというのも、橋本さんが最後に書いていたのは昭和から平成にかけての日本人の心の物語です。

 『草薙の剣』がまさにそうでした。

 そして昨夏、あるエッセイの中でこんなことを(おそらくは病床で)書いていました。

<多分、人はどこかで自分が生きている時代と一体化している。だから、昭和の終わり頃に、実に多くの著名人が死んで行ったことを思い出す。>(webちくま連載「遠い地平、低い視点」第49回「人が死ぬこと」)

 そして、昭和天皇崩御の1989年に、「矢継ぎ早とでも言いたい」くらい、手塚治虫、東急の五島昇、色川武大、松下幸之助、民社党の春日一幸、作家の阿部昭、美空ひばり、2世尾上松緑、辰巳柳太郎、森敦、矢内原伊作、作曲家の古関裕而、谷川徹三、松田優作、開高健といった人たちが、次々に亡くなったことを述べています。

<今となっては「誰、この人?」と言われそうな人も多いが、死んだ時は「え?! あの人も死んだの?」と言われるような大物達だった。>

 そして、こう続けます。

<私はもう七十になった。七十過ぎてまで現役作家をやっている人は、昭和の頃にそうそういなかった。‥‥私なんか、もう才能が涸れて「どうしたらいいのか分からない」状態になっていても不思議はないのに、どういうわけか、頭は若い。「いつまで若いんだろう?」と思うと、少しいやになる。>

<平成の三十年は不思議な時間だ。多くの人があまり年を取らない。‥‥年を取らず、成熟もしない。昔の時間だけがただ続いている。‥‥昭和は、その後の「終わり」が見えなくてまださまよっている――としか思えない。>

 平成という時代がまさに幕を閉じようとしているいま、橋本治さんが逝きました。

 訃報を聞いて、「あ、ひとつの時代が終わるんだ」と感じた人は少なくないと思います。

 作家が死ぬと、一層その思いは深まります。

 ましてや橋本治という人には、それを強烈に意識させるものがあります。

 時代はここで、どう変わるのでしょう?

 合掌

2019年1月30日

ほぼ日の学校長

*糸井さんをホストにした座談会「独身上手と結婚上手の間で」(婦人公論1999年9月22日号)に橋本治さん、篠原勝之さんを迎えたのは、1999年の夏でした。私が「婦人公論」編集長をしている時です。「ほぼ日」の初期のコンテンツとして、いまも読むことが可能です。みんな、若い!

「ほぼ日」コンテンツとしては、「橋本治と話す平賀源内。」も必見です。