2018年1月、
ほぼ日の学校が始動しました。

これからいったい、
どういう学校に育っていくのか。

そのプロセスの出来事や、
学校にこめる思いなどを、
学校長・河野通和が
綴っていきます。

ほぼ日の学校長

河野通和(こうの・みちかず)

1953年、岡山市生まれ。編集者。

東京大学文学部ロシア語ロシア文学科卒業。

1978年〜2008年、中央公論社および中央公論新社にて
雑誌『婦人公論』『中央公論』編集長など歴任。

2009年、日本ビジネスプレス特別編集顧問に就任。

2010年〜2017年、新潮社にて『考える人』編集長を務める。

2017年4月に株式会社ほぼ日入社。

ほぼ日の学校長だよりNo.83

「学び終へてよめる歌」

 5月22日、「万葉集講座」が終了しました。トリは上野誠さんでした。

 上野さんで幕を開け、 岡野弘彦さん、永田和宏さん、ピーター・マクミランさん、俵万智さん、小泉武夫さん、梯久美子さんといった“実力講師”をはさみながら、最後を上野さんに締めくくっていただきました。

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 先日の「万葉ツアー」(5月18、19日)――受講生30名とともに吉野、明日香、平城宮跡を歩く――でも、上野さんには現地でのガイド役をお願いしました。すっかりお世話になりました。

 初回にシェイクスピア研究者・河合祥一郎さんとの対談を提案してくれたのも、上野さんです。国文学者は保守的だという“偏見”を、あっさり打ち破ってくれました。しかも、語り口が魅力的で、“愛嬌”があります。

 『万葉集』のおもしろさ、それを学ぶたのしさを、どうやったら人にうまく伝えられるのか? それをひたすら考え、試行錯誤を繰り返してきた成果が、ここに結集された気さえします。「学校長だより」No.59の最後に書きました。

<かくて「万葉集講座」は、「おもしろい」「たのしい」から出発して、それをゴールにしたいと思うのです。>

 この初志を貫徹できたのも、全体のトーン&マナーを上野さんの語り口が決めてくれたからだと思います。「あのね‥‥」で始まるか、「それでね‥‥」で始まるか、まるで“けもの道”に分け入るようにその語りに導かれていくと、そこには『万葉集』と私たちをつなぐ秘密のルートが隠されていて、いつも思いがけない風景がひらけます。このワクワク感こそが、「生きる」感動だと思うのです。

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 明日香の里の何ということもない“ただの原っぱ”が、上野さんの解説ひとつで、まるで「アラジンと魔法のランプ」の話のように、7世紀、8世紀の空間に変貌してしまいます。百済(くだら)から渡来した帰化人たちが、都づくりにいそしむ姿が見えるようです。

 采女(うねめ)の 袖吹き返す 明日香風 京(みやこ)を遠(よほ)み いたづらに吹く (志貴皇子(しきのみこ)巻1、51)

 甘樫丘(あまかしのおか)に吹く風が、「ああ、ここはむかし都だったのだが‥‥」と歌う作者の感傷を告げてきます。

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 見えない都が立ち上がり、聞こえないはずの声が届いてきて、夢と現実、過去と現在が溶け合った不思議な空間が生まれます。それをお笑い顔負けの話芸でやるのが、上野さんの上野さんたるゆえんです。

 最後の講義でも、ユニークな“魔法”が駆使されました。「令和」フィーバーで俄然注目されることになった天平2年(730年)正月13日の「梅花の宴」。

 主客あわせて32人が和歌を1首ずつ詠み合います。宴の主人(あろじ)、太宰帥大伴旅人は詠みました。

 我が園に 梅の花散る ひさかたの 天(あめ)より雪の 流れ来るかも(巻5、822)

 白梅の花が散るさまは、空から雪が流れてくるように見える‥‥。上野さんは、うっとりと読み上げ、「見事な歌です。万葉集のなかでも名歌のひとつです」と述べたあと、「しかし、いくらなんでも、そんなバカなことはない(白い花びらが散るのを見て、空から雪が流れてくるみたいだ、とは誇張も甚だしい!)」と言います。

 でも、これは「見立て」の美学であってね、「見立て」とは、結びつけられる2つのもののズレが大きければ大きいほどおもしろい、と続けます。

 そこで出てくるのが、親戚のおじさんの話です。なんでも、金魚を飼うのに、庭に池を作ったとか。おそらく少年時代の上野さんがそれを話題にしたのでしょう。おじさんが言います。「うん、ちょっとマネをしてね」「どこのマネ?」「大阪城のマネ」。

 2つのものがかけ離れていればいるほど、見立てのおもしろさがある! おじさんは笑いのツボを心得ていた、という話。このスベっているような危うさが、上野流の秘術です。

 大伴旅人、山上憶良らの思想的背景には中国の六朝(りくちょう)文化がありました――。六朝文化とは、揚子江下流にある現在の南京を中心に栄えた3世紀から6世紀末にかけての貴族文化です。江南の温和な気候・風土を背景に、文人では陶淵明、書家では王羲之・献之父子らが活躍します。また、世俗を超えて哲学的問答にふける「清談」の風潮が生まれ、「竹林の七賢」などが有名です。

 その中国の老荘思想が大伴旅人、山上憶良らによって太宰府にもたらされ、いわゆる「筑紫歌壇」では一種の「無常」観が共有されます。大伴旅人の「讃酒歌」13首のうちから、もっとも有名な歌が引かれます。

 生ける者(ひと) 遂にも死ぬる ものにあれば この世にある間(ま)は 楽しくをあらな (巻3、349)

 「この歌を読んで、『おッ、酒を誉める歌があるのか。オレは酒好きだぁ』といったのが太宰治(津島修治)なの。あの“太宰”は、太宰帥の“太宰”から来てるのよ。酒好きだというのでね。意外に知らない人が多いけど」と上野さん。

 そして、生きること優先の思想でいえば、吉田兼好の『徒然草』第93段には、「人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり」という一節があることを紹介します。

 「人がみな、生きていまあるという喜びを楽しまないのは、死というものを恐れていないからである。いや、死を恐れていないのではなくて、死が自らの近くにあることを忘れてしまっているからである」。上野さんが好んで言及する一節です。

<わたしは、この歌を読むと必ず兼好のことばを思い出す。どんな人でも死ぬという運命から逃れ得ない。だから、生きている間には楽しく生きなければならないんだということを、わたしはこの兼好のことばから再確認する。人生一度っきり、片道切符である。だからこそ楽しまなければならないのだ。そういう思想をわたしは、この歌から学んだのである。>(『はじめて楽しむ万葉集』、角川ソフィア文庫)

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 上野節はさらに続きます。

 「あのね、ぼくの母親、95歳でなくなったんだけど、90歳の誕生日に『お母さん、90まで生きたらどんな気持ち?』と聞いたの。そしたら、博多弁でよ、『60まで生きても、70まで生きても、90まで生きても、過ぎ去った時間は一瞬たい』と言ったのよ。これが95で死んだ母親の90の時のことば。過ぎ去った時間は一瞬」

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 語り口の魅力をどこまで伝えられているか、自信はありません。しかし、古典の理解を促し、古典に触れるよろこびを分かち合う、新たな語り口に出会えたと、少なくとも私は信じています。いずれオンライン・クラスで、皆さんにも体感していただくのが一番です。

 さて、講義の最後に受講生から質問がありました。その流れで私が上野さんに質問しました。2012年にノーベル文学賞を受賞した中国の作家、莫言(ばくげん、モーイエン)が来日した際のエピソードです。奈良にやってきた彼の案内役をつとめたのが上野さんです。

 その思い出を、上野さんは『万葉集から古代を読みとく』(ちくま新書)のなかに書いています。この話を、ぜひ一度、直接確かめたいと思っていたのです。

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 「中国の田舎のおっさんという感じ」の莫言さんは、その時、にこにこした調子で尋ねました。「君の研究している『万葉集』っていったい何だい?」と。

<私は、その質問があまりにもストレート過ぎて、どう答えてよいかわからなかった。(略)しばらくして私は、「それは、だいたい八世紀の中葉くらいに成立した歌集で、それは雑歌、相聞、挽歌から成り立っていて‥‥」と説明しはじめた。すると、彼は、済まなそうな顔をして、こう言う。
 貴方と私は、次にいつ、どこで逢えるかわからない。だから、貴方が今、思っていることを聞きたい。細かなことは、別れたあとからウィキペディアで勉強できるから、貴方の言葉で語ってほしい――。
 私は自らの不明を恥じた。そして考え込んでしまった。すると、長考に入った私を見た彼は、また、こう言った。
 ここは、奈良だ。私は中国の莫言だ。莫言がいて、貴方もここにいる。貴方は私に『万葉集』について、どう語りたいのかい。それを聞きたいのだよ。>

 そう水を向けられても、なかなかうまい答えは出てきません。上野さんは一生懸命考えて、しどろもどろになりながら答えたそうです。

<『万葉集』は、七世紀と八世紀を生きた日本人の、声の缶詰でしょうか。この缶を開けると、香りや味が蘇ります。>

 すると莫言さんは、「そう思える八世紀の歌集が残っていることは、日本語の使い手の子孫としてはたいそう喜ばしいことだね」と言って、微笑んだそうです。とてもいい話だと思います。

 莫言さんの小説は長編小説が大半です。私が読んだ『赤い高粱(こうりゃん)』(正続、岩波現代文庫)、『白檀(びゃくだん)の刑』(上下、中公文庫)、『蛙鳴(あめい)』(中央公論新社)のいずれも、相当なボリュームです。

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 ところが、その人の問いかけが、非常に本質をついた、単刀直入なものであることが可笑しみを誘います。さらに、彼の筆名の「莫言」は、「言(げん)莫(なし)」「言う莫(なか)れ」なのですから、これも人を食っています(*)。

 このやりとりを最後にして、「万葉集講座」は幕を閉じました。これまでの講座とは違う格別の感慨が湧いてきました。開講中に「令和」という新元号が決まり、それでにわかに『万葉集』に注目が集まったことも一因には違いありません。NHKのテレビ取材が入ったことなど、まさにお祭り体験そのものです。

 ただ、そういう次元ではなく、教室には静かなドラマが進行していました。その結果、気がついた時には、受講生の何かが大きく変わっていたのです。

 全10回の講義を通して、半年前には考えられないような変化が起きていました。受講生ひとりひとりが「歌」と心を通わせ、ことばを受けとめ、ことばを探し、日々の過ごし方を少し変えていたのです。

 この講座で学んだものが何かというのは、そんなに簡単に整理できるようなものではないでしょう。むしろ曖昧なまま抱えていたほうがいいと思うくらいです。ただ、俵万智さんが言ったように、歌と心を通わせ始め、一日一日をより丁寧に生きていくようになれば、それは素晴らしいことだと思います。

 そんな感慨をこめて、「万葉集講座」の修了証とともに、ささやかな記念品を渡しました。浅草・満寿屋(ますや)に特注した短冊形の原稿用紙。18字×4行で一筆箋のサイズです。岡野弘彦さんがおっしゃっていたような「歌を書くにはちょうどいい大きさ」の原稿用紙です。

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 満寿屋さんは明治15年の創業で、小林秀雄、川端康成、三島由紀夫、井上靖、丹羽文雄、司馬遼太郎、宇野千代、水上勉、吉行淳之介、吉村昭さんなどが贔屓(ひいき)にしました。愛用の万年筆で「升目に字を埋める」というのが、執筆の基本スタイルだった時代です。

 5、6年前に津村節子さんが「死ぬまでにあと200枚もあればいいか」と思って注文したところ、「何をおっしゃいます。これからもどんどんお書きくださらなくては」とご主人に言われたという話を津村さんに伺いました。

 そういうお店の原稿用紙なので、受講生の皆さんには惜しまず使ってもらいたいと思います。精を出して歌を作ってほしいと願います。岡野さんのように、「ぬるめの朝風呂に1時間ほどつかって、1日20~30首の歌を詠む」というところまでは求めません。せめて一日一首。ぜひ継続してほしいと思います。

 すると放課後、今度は私たちにサプライズがありました。なんと、受講生有志から「ほぼ日の万葉集講座を学び終へてよめる歌」55首が巻物のかたちで贈られたのです。講師全員、糸井重里さん、学校長である私、チーム一同に対してです。

 予想もしませんでした。思わず、「いつの間にこんなものを!」と言ってしまったのですが、よくよく考えると、それが少しも不思議でない雰囲気が教室には醸成されていたのです。学校長は、言(げん)莫(なし)!

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 どうもありがとうございました!

2019年5月30日

ほぼ日の学校長

*「筆名の莫言は、『無口』か、それとも『口にしない』という意味か?」と尋ねられた作家は、かつてこう答えています。「ペンネームとは、自ら自分を覚醒させるものだ。口数は少なく、仕事は多めにせよという意味だ。口先で語る人は、政治家や演説家だ。作家の役目は、口先ではなく文章で語ることだ」(東亜日報、2012年10月16日)