ほぼ日の学校長だよりNo.8
「無人島に持っていく1冊」
秋晴れに誘われて神田神保町の「神田古本まつり」に出かけました。1960年(昭和35年)から開催されていて、今年で58回目。このところ年々賑わってきている気がします。以前は、いかにも本好きというシニア男性がほとんどでした。“おばあちゃんの原宿”とげぬき地蔵の逆パターンだと思っていました。ところが若い女性客ががぜん増えたのと、子ども連れの夫婦、外国人の姿が目立つようになりました。
靖国通りに面した歩道は古本セールス一色ですが、ひと筋なかへ入ってすずらん通りに出ると、新刊書店、出版社、まわりの飲食店などがワゴンを並べて、町あげてのブック・フェスになっています。
縁日を歩く気分で、行きかう人の顔を眺めながら、みんな何をお目当てにやってきたのかと、想像しながらブラブラします。ばったり知人にも会いました。道端でエスニックカレーを頬張っていました。ロシア語が聞こえたので、ふと目をやるとロシア料理店の前でした。中華料理、インド料理、いかにもこの町らしい国際色が路上にあふれます。
近くでは、神田名物のカレー店が人気を競う「神田カレーグランプリ」も開かれているようでした。100軒以上も古書店が参加し、100万冊以上の本が出品されるそうですが、本買い目的だけでない「ついで」の楽しみが増えているところに、「古本まつり」の人気の秘密もありそうです。
実は前日も、ついこの近くまで来ていました。古本まつりに連動させて、11月3日の文化の日に行われた「神保町で本の“いま”を語ろう」というシンポジウム(主催・特定非営利活動法人 本の学校)に呼ばれたからです。
パネリストはノンフィクション作家の梯久美子さん、読書家ビジネスマンとして知られる出口治明さん(ライフネット生命保険創業者)、それにインターネット書評サイト「HONZ」副代表の東えりかさんの3人です。私がコーディネーターを務めました。
本のおもしろさをどうすればもっとアピールできるか、本と人との出会いをこれからどう作り出していくか、といったことを話しているうちに、あっという間に予定の90分になりました。最後にフロアから、「もし無人島に行くとすると、持っていきたい1冊は何ですか?」という質問が出ました。いつも答えに窮する難問です。
東さんは『広辞苑』です、と即答しました。「いまは、書くより読むほうがずっと楽しい」という活字中毒者の東さんらしく、「無人島でもきっと活字が恋しいと思います。でも、本が自由に手に入らなければ、あとは自分で書くしかない(笑)。『広辞苑』があれば、最初はきっと眺めているだけでしょうが、そのうち文字や単語を探しつつ、自分の書きたいものを書き始めるでしょう。自分が読むためだけの本を書く。それには『広辞苑』が絶対必要です。来年の1月には改訂版も出ますし、8500円(6月末までの記念特価)の投資は高くありません」と。
出口さんは、「先に言われてしまいました。私も『広辞苑』と言うつもりでした」と笑った後、マルグリット・ユルスナールの『ハドリアヌス帝の回想』を挙げました。いかにも歴史好きの出口さんらしい選書です。
梯さんは『昭和万葉集』を挙げました。「昭和を生きた人たちの短歌を、有名無名、プロ素人の別なく、膨大な数を集めて年ごとに編集しています。短歌は文芸作品であると同時に、時代の証言でもあることがよくわかります。特に、戦時中や終戦直後の市井の人々の歌は、生活の細部や日本人の心のありようがリアルにわかって興味深く、昭和史のドキュメントの要素もあります。なので、一巻だけ持っていくなら、昭和20年を含む巻です」と答えました。
「とにかくたくさんの歌が載っているので、読みでがあるし、退屈しないはず。実は私も若い頃に短歌を作っていたので、この本を持っていくと、自分でも作る気になるかもしれない。自分の人生を回想し、時間をつぶすには、歌を詠むのも良いのでは」と。
で、私は困った末に、「出版社の廊下には“束見本(つかみほん)”といって、本の中身はまっ白だけれども、実際の製本時と同じ紙で作られたダミー本が、たくさん積んであります。本の重さ、厚さ、触感を確かめるために作る見本です。その白い本を持っていきたい」と答えました。
真新しい日記や手帳のように、まだ何も書かれていない本に向かって、日々の記録を綴りたいのでは、とイメージしたからです。
夜、懇親会があって、そこでまた出口さんと立ち話をしました。
「無人島に『広辞苑』というのは、なぜなんですか?」
「コンパクトな百科事典だからです。どのぺージを開いても抜群に面白い」
そういえば、出口さんが新人サラリーマンだった頃、早く仕事が終わったので本を読んでいると、「おまえ、仕事中に本を読むな」と上司に怒られたそうです。「仕事は全部済んだのですが」「あほ、そういう問題じゃない」。そう言われて、この上司こそアホや、これ以上話してもしょうがない、とあきらめたというのです。ところが、辞書や百科事典を読んでいたら、上司は何も言いません。仕事のための調べものでもしていると思うらしい。それで図書室から辞典類を借り出しては、適当に読んでいたというのです。
外柔内剛の出口さんらしい逸話です。
- 河野
- たしか出口さんは、ロンドン勤務の内示が出た時に、蔵書をあらかた処分なさったんですよね。売らなかったのがシェイクスピアと、『よりぬきサザエさん』『いじわるばあさん』だったとか(笑)。
- 出口
- そうです。シェイクスピアはロンドンに行ったら芝居を全部観ようと決めていたから。
- 河野
- 今度『ほぼ日の学校』の立ち上げは、シェイクスピアからなんです。
- 出口
- シェイクスピアはいいですよねぇ。何が一番お好きですか?
- 河野
- 私は子どもの頃に最初に読んでショックを受けた『リア王』が忘れられません。
- 出口
- 4大悲劇もいいですね。私は『ヘンリー六世』です。やはり歴史もの、史劇が好きなんです。ロンドン時代は毎公演、ロイヤル・シェイクスピア・シアターに行きました。
美術オタクなので、暇さえあればナショナル・ギャラリーに通っていたという話は、何かで読みました。あまりに頻繁なので、それに気づいた美術館のスタッフと話すようになり、「うちの理事長と食事をしないか」と誘われて、実際にランチをともにしたそうです。美術館に限らず劇場にも通いつめていた! そしてどうやら、ロイヤル・オペラ・ハウスにも足しげく通っていたというのです。
シンポジウムでもソフトな口調で、世にはびこるトンデモ本に対し、辛辣なコメントを繰り出していた出口さん。一方で強調したのは、古典の価値です。彼の持論とするところです。
「同じ読むならいい本を読んだほうがいい。古典は無条件に優れていると思います。人智の淘汰、歴史の風雪に耐えて、生き残ったものが古典です。人類の経験知の集積として評価されているのが古典です」
シェイクスピア講座の続編をやる時には、ぜひ講師のひとりに加わっていただきたい。その前に、今度の講座の参観にいらしてくださいと、すかさずお願いしたのは当然です。
2017年11月8日
ほぼ日の学校長