2018年1月、
ほぼ日の学校が始動しました。

これからいったい、
どういう学校に育っていくのか。

そのプロセスの出来事や、
学校にこめる思いなどを、
学校長・河野通和が
綴っていきます。

ほぼ日の学校長

河野通和(こうの・みちかず)

1953年、岡山市生まれ。編集者。

東京大学文学部ロシア語ロシア文学科卒業。

1978年〜2008年、中央公論社および中央公論新社にて
雑誌『婦人公論』『中央公論』編集長など歴任。

2009年、日本ビジネスプレス特別編集顧問に就任。

2010年〜2017年、新潮社にて『考える人』編集長を務める。

2017年4月に株式会社ほぼ日入社。

ほぼ日の学校長だよりNo.61

「ヘリコプターでエベレスト」

 さて、上野誠さんの2回目の講義――。初回にもまして、教室じゅうに爆笑の渦が巻き起こりました。

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 前回は、万葉集とシェイクスピアの“掛け合い”という、(上野さんいわく)鉄棒でこれから「逆上がり」をやろうとしている人に、いきなり「月面宙返り」を教えるような大技(おおわざ)に挑みました。

 「あれを聞かなかった人は大損!」と振り返る上野さんは、河合さんが授業の最後におっしゃった「歌というものは知性ですから」のひと言にいたく感じ入った様子です。

 一方で、自分がつねにめざすのは、1300年前に生きた万葉びとの生活と実感を、現代人の生活の文脈に甦らせることだ、と強調します。そして『万葉集』全20巻の巻頭を飾る巻1の1に置かれた雄略天皇の御製歌(おほみうた)に、『万葉集』編纂(へんさん)者のいかなる思いがこめられたかを読み解くところから、今回の講義は始まります。

 雄略天皇とは、古代中国の歴史書に登場する倭国の5人の王(讃・珍・済・興・武)のうち「武」にあたるといわれます。5世紀の人で、兄である安康(あんこう)天皇の死によって即位した第21代天皇です。反抗的な地方豪族を武力でねじ伏せ、大和朝廷の権力を確立した英雄とされます。

 ただ、『日本書紀』によれば、「日頃から乱暴で知られ、皇女らは『にわかに機嫌が悪くなると、朝に会した者も夕には殺され、夕に会った者も翌朝には殺される』といって一様に恐れた」暴虐の王でもあります(笠原英彦『歴代天皇総覧』、中公新書)。

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<‥‥自己を絶えず主張してはばからず、実に疑い深い性格で皇位を継承するにあたり多くの人々を残酷にも殺戮したことで知られる。>(同)

<‥‥独断専行することが多く、周囲の人々を殺(あや)めることも少なくなかったため、「はなはだ悪しくまします天皇なり」という芳しからざる評価を後世に残した。>(同)

 「ゴッドファーザー」か「仁義なき戦い」か。兄弟皆殺し、というような血で血を洗う凄惨な抗争の果てに、泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)に即位した雄略像が浮かび上がります。

 ところが、それに対して『古事記』では、この天皇をめぐる別種の物語が2つの内容に分かれて登場します。ひとつは求婚物語であり、もう一つは王者としての雄略賛美の物語です(中西進『古代史で楽しむ「万葉集」』、角川ソフィア文庫

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<‥‥古事記の雄略が愛の物語の主人公であり、他方王者としての勇姿をもつものであることを知るとき、われわれは容易に万葉の雄略を理解することができる。万葉において雄略はまず‥‥巻一の巻頭に姿を見せ、また巻九においても巻頭は‥‥雄略の歌からはじめられるのである。古代の王者によって巻頭をかざる意識がそうさせたのであり、さらに、巻一の歌は王者の求婚の歌であって、古事記の認識をふたつながら背負って、雄略は万葉にも登場するのであった。>(同書)

 つまり、『万葉集』が編纂された8世紀の人々にとって、雄略天皇は『古事記』のイメージをまとう古代の英雄でした。数々の武勲と多くの恋の伝説に彩られた畏敬の対象として語られていたのです。

 籠(こ)もよ み籠持(こも)ち 掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち この岡に 菜摘むます児(こ) 家告(の)らせ 名告(の)らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそいませ 我こそば 告(の)らめ 家をも 名をも (雄略天皇、『万葉集』巻1の1)

 籠も 良い籠を持ち へらも 良いへらを持って この岡で 菜をお摘みになっているお嬢さんがた! 家をおっしゃい 名前をおっしゃいな‥‥ (そらみつ)大和の国は ことごとく 私が君臨している国だ すみずみに至るまで 私が治めている国だ 私の方から 告げましょう (大王の)家のことも (わが)名前のことも (上野誠訳)

 春のうららかな日。明るい日ざしを浴びながら岡で若菜を摘む乙女たち。そこを通りかかった天皇が、娘たちに声をかけ、家と名前を聞いて、結婚を申し込みます。しかも、その天皇は大和を中心にした国家の統一を成し遂げた、力強く魅力的な古代の王者なのです。

<おそらくこのプロポーズは、大和に春を告げる年中行事であったと考えられる。そして、そこでは天皇は「わたしこそ大和の王だ」と宣言することにこそ、重要な意味があったのであろう。したがって、求婚は春を迎える儀式として行われている、と考えるのがよい。>(上野誠『はじめて楽しむ万葉集』、角川ソフィア文庫

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 題詞に「天皇がお作りになった歌」とありますが、雄略天皇の実作ではなく、もっと後の時代になって口誦(こうしょう)された伝承歌であろうといわれます。春の農耕の始まりに先立ち、大和の王者の成婚を歌うことは、子孫の繁栄や秋の豊作を予祝する(あらかじめ祝う)めでたい儀礼の意味を持ちます。新芽の萌えいずる春の到来をことほぎ、その年の五穀豊穣を願う万葉びとの心情を、古代の偉大な王に仮託したと考えられます。

<歌の舞台は、雄略天皇の宮跡とつたえられる奈良県桜井市黒崎付近の丘が想定される。このあたりは初瀬(はせ)川をぬうようにして近畿日本鉄道と伊勢街道が走り、川をはさんで両側は段丘になっている。とくに朝倉宮伝承地は、三輪(みわ)山塊の日当たりのよい東南斜面中腹にあって、眼下には伊勢街道を望み、いまも四季おりおりの草花が絶えることはない。
 ともあれ、この時代は、野菜(真の意味での野の菜)も日々に不可欠な食材であり、早春の若菜はまちかねた季節のおとずれを感じさせる。>(廣野卓『食の万葉集』、中公新書

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 縁起がよく、大らかで生命力にあふれた歌で幕をあけるのが、『万葉集』にはうってつけだと、編者が考えて巻頭に据えたのだろうと想像されます。

 さて、この「学校長だより」は、基本的に講義の内容に沿いながらも、ダイジェストではなく、できるだけ授業では触れられなかった話を中心に書いています。ただし今回は、あえてその“禁”を破っても、上野さんが披露した大ネタを共有しておかねばと思います。というのも、来春にむけて“万葉の旅”を考えている方々にぜひ参考にしていただきたいと思うからです。

 上野さんが教えてくれたのは、「地球」ならぬ「奈良の歩き方」です。要点を列挙してみましょう。

・奈良に来て、東大寺と興福寺だけを見て帰る人。偏差値40!
・もう一泊して、薬師寺と唐招提寺に行く人。偏差値55!
・もう一泊して明日香(あすか)に行き、「明日香宮と藤原宮はこんなにも近いのか」と思う人は、偏差値65、くらい。
・さらにそこで、志貴皇子(しきのみこ)の「采女(うねめ)の 袖吹き返す 明日香風(あすかかぜ) 都を遠み いたづらに吹く」(巻1の51)の歌を思い浮かべ、「ああ、昔はここに都があったのだが‥‥」という作者の感傷にひたりながら、明日香を歩く人は、偏差値70ぐらい。
・もっと上級は? と言えば、吉野宮に行ってみる人。
・けれども、「ほぼ日の学校」の皆さんにぜひ行ってほしいのは、奈良時代の皇居、すなわち「平城宮」――。
・平城宮跡の空間に立って、ああ、唐の長安を模した平城京の東の守り神は春日山と若草山なんだなぁ、西の守り神は生駒山、北は平城山(ならやま)、そして平城宮は北辺に位置して、都は南にひらけているよなぁ(天子南面、臣下北面の考え方に符号している)と実感していただきたい。
・そして、平城宮の大極殿(だいごくでん)の前に立ち、春日野のあたりに目をやって、

 春日野に 煙(けぶり)立つ見ゆ 娘子(をとめ)らし 春野のうはぎ 摘みて煮らしも(巻10の1879)

 春日野に 煙が立っているのが見える‥‥
 乙女たちが
 春の野のよめ菜を 摘んで煮ているのかなー (上野誠訳)

 この歌をふと口ずさみ、そこに煙が立っているのを思い浮かべたら、偏差値は一挙に120! 
・つまり、平城宮で働く男の役人たちは、春日野に煙が立つのを見たら、もういても立ってもいられなくなったはず。仕事を止めてすぐにでも駆けつけたい、若菜摘みするお嬢さんたちに声をかけたい‥‥。
・乙女たちは摘んだ若菜を煮てくれる。酒がふるまわれ、楽しい宴が催される。いまでいうピクニックのような野遊びが、万葉びとたちの心待ちにしていた春の年中行事なのです。

 これを実感するのが、上野流「奈良の歩き方」の“ほぼ日コース”です。

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 若菜摘みといえば、山部赤人(やまべのあかひと)の歌4首があります。

 春の野に すみれ摘みにと 来(こ)し我(われ)ぞ 野をなつかしみ 一夜(ひとよ)寝にける (第1首目、巻8の1424)

 春の野に すみれ摘みにと やって来たワタシは‥‥
 野をいとおしく思い 結局一晩寝てしまったわ (上野誠訳)

<それがさぁ、日帰りのつもりがね、結局泊まることになっちゃって‥‥という内容の歌である。当然、山小屋のような施設があり、泊まって遊ぶこともあったのである。もちろん、摘んだ若菜を肴(さかな)に酒盛りが行われていた、と私は推定している。さらには、そういう機会を通して、深い仲になったカップルも多かったはずである。>(上野誠『万葉集で親しむ大和ごころ』、角川ソフィア文庫

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 明日よりは 春菜摘まむと 標(し)めし野に 昨日も今日も 雪は降りつつ (第4首目、巻8の1427)

 あしたからは 春菜摘もうと 標(しめ)をしていた野に 
 昨日も今日も 雪は降りつづいている (上野誠訳)

 “標(しめ)”とは、若菜摘みの“場所取り”のようなもの。せっかく先に来て、場所も確保したというのに、雪が降ってるよ、明日の若菜摘みはお流れかなぁ‥‥という歌。

<春菜つみといえば、汗ばむような陽光を浴びながら、万葉びとが春の野に舞う情景が浮かんでくる。しかし、万葉びとが春菜をつんだのは、この歌のように、なごりの雪が昨日も今日も降りつづく春とは名のみの残寒の一日でもあった。(略)
 平安時代にも、こうした若(春)菜つみは、まだ雪の日もある早春の行事であった。(略)
 こうした早春の若菜つみはのちに迎春の行事になり、春の七草に発展する。>(廣野卓・前掲書)

 南都・奈良に春を告げる行事といえば、東大寺の「お水取り」、薬師寺の「花会式(はなえしき)」が有名です。とりわけ「お水取り」は時候の挨拶として用いられます。「やっぱり、お水取りが終わりませんと、あったこうなりませんなぁ」「今年は、お水取りが終わらんさきから、あったこうなりましたわ」。‥‥何だか奈良へ行きたくなってきませんか?

 講義の始めに、上野さんが強調したのは、万葉びとの生活と実感に迫りたい、ということでした。現代人の生活の文脈にそれを甦らせたい、万葉歌に親しむことで古代の心を旅したい、ということです。

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 今回は「月面宙返り」ではなく、ヘリコプターでエベレストの頂上をめざす、と大見得を切った旅の案内役は、ツアー客を笑わせながら、万葉びとの心の旅をたっぷり堪能させてくれました。

2018年12月13日

ほぼ日の学校長