ほぼ日の学校長だよりNo.40
「東京の投資家」
『ヴェニスの商人』を最初に読んだ思い出をたどると、チャールズ・ラム/メアリー・ラムの『シェイクスピア物語』(岩波文庫、上下)に行き着きます。『エリア随筆』で知られるイギリスの作家、エッセイストであるチャールズ・ラム(1775〜1834)とその姉メアリー(1764〜1847)が、シェイクスピア作品から20篇を選び、少年少女向けの物語に仕立てた短編集です。『リア王』も『マクベス』も、やはりこれによって知りました。
読みやすく、入門編としてはうってつけ。ただし、『ヴェニスの商人』でいえば、3つの小箱選びの大切な場面が省略されています。ヒロインであるポーシャ――ベルモントの町に住む美しく機知に富んだ女性。亡父から莫大な遺産を受け継いでいますが、父の遺言により、金・銀・鉛の3つの小箱から“正しい箱”を選んだ男と結婚するという掟を定められています――が、ヴェニスの貿易商、アントーニオの親友バッサーニオと結ばれるまでの挿話がそっくり欠落しています。
金の箱には「我を選ぶ者、諸人(もろびと)の欲するものを得ん」という銘が刻まれ、銀の箱には「我を選ぶ者、その身にふさわしきものを得ん」とあり、鉛の箱には「我を選ぶ者、持てるすべてを手放し危険にさらすべし」と記されています(松岡和子訳、ちくま文庫)。この謎の意味を正しく解読した者がポーシャを妻に娶(めと)ることができるのです。
金の箱を選んだモロッコ大公、銀の箱を選んだアラゴン大公がいずれも脱落した後に、3番目に登場するのがバッサーニオです。彼は鉛の箱を選び、正解を引き当てます。それがラム姉弟の物語では、
<バサーニオは、友人のアントニオが、親切にも、命を賭けて金を借りてくれたので、豪勢な供まわりを連れ、グラシアーノという名前の紳士も同伴して、ベルモントへ向けて出発しました。
バサーニオは、求婚に成功して、ほどなくポーシャは、バサーニオを夫として迎えることに同意しました>(安藤貞雄訳、前掲書)
と、あっさりした記述です。
割愛した理由はわかりませんが、『ヴェニスの商人』は、それでなくても物語やエピソードがてんこ盛りの作品です。親友のためにみずからの「肉1ポンド」を賭けて金を借りたアントーニオとユダヤ人の高利貸しシャイロックとの対立抗争劇(ピークは、有名な人肉裁判の法廷場面です)、先ほどのポーシャの婿選び(バッサーニオの成功)の物語、シャイロックの娘ジェシカとアントーニオの友人ロレンゾーとの駆け落ち、最後にふたたびポーシャとバッサーニオの間の指輪をめぐる痴話喧嘩(茶番劇)といった4つの物語を軸にしながら、他にもいろいろな要素がからみあう盛りだくさんな内容です。
大筋をまとめれば、この物語はユダヤ人の強欲な高利貸しシャイロックの術中にはまった友人思いのアントーニオが、ポーシャという素晴らしく頭の切れる女性の機転に救われて、無慈悲な憎悪と復讐の刃から逃れるというハッピー・エンドの物語(シェイクスピア作品では喜劇に分類される)なのでしょう。
日本で初めて上演されたシェイクスピア作品も、『ヴェニスの商人』を翻案した『何桜彼桜銭世中(さくらどきぜにのよのなか)』(1885)で、船問屋紀伊国屋伝二郎(きのくにやでんじろう)の肉を切り取ろうとする高利貸し枡屋五兵衛(ますやごへい)の訴えに、学者中川寛斎(かんさい)の娘玉栄(たまえ)が男装して名判官ぶりを見せるという歌舞伎仕立てのものでした。
その原作を、まったく新たな視点で解読し、思いもかけない「経済学」の文脈に連れ出したのが、岩井克人さんの『ヴェニスの商人の資本論』(ちくま学芸文庫)です。1984年、初めて会った岩井さんから、この表題作の構想を聞いた時、目からウロコが落ちるとはこれかと思うほど、知的興奮を覚えました。
17世紀のシェイクスピアがどこまで岩井さんのいう「資本主義」の意味を理解していたかは疑問です。しかし、シェイクスピアが描き出した世界には、それが見事に活写されています。いま読んでも、岩井さんの論考は作品論として抜群におもしろく、「資本主義」というシステム、運動体の分析としても鮮やかな切れ味を見せています。
<すなわち、資本主義とは、かつてはそれぞれに孤立し、閉鎖されていた価値体系と価値体系とを相互に対立させ、相互に連関させ、それらを新たな価値体系の中へと再編成してしまう社会的な力にほかならない。そして、このような過程のなかで、それ自身で完結していたかに見えていた古い価値体系はその差異性を失い、「腐った果実のようにいち早く地に落ちてしまう」のである。>
この記述のどこが『ヴェニスの商人』なのか、と思われるかもしれませんが、アントーニオやグラシアーノら、お互いに「兄弟的」な連帯によって結ばれたキリスト教徒たちの一種の共同体、シャイロックに代表される、キリスト教世界における異邦人としてのユダヤ人グループ、最後にポーシャ、ジェシカら女性たちが形づくる第3のグループが、お互いの間の「交換」を通じて、「それぞれ不可逆的にその存在形態そのものを変質させてしまう」物語だと、この作品を読み解いているのです。
これ以上詳しくは書きませんが、とどめを刺されたのは結論です。バッサーニオとポーシャ、ロレンゾーとジェシカなど3組の男女が結婚し、「それぞれ資本主義的な個人へと転身することに成功したなかで、アントーニオただひとりが孤立した存在として取り残される」という指摘です。
<最後まで兄弟盟約的な共同体原理に固執し続けていたこの「古代ローマ人」、真の意味での「ヴェニスの商人」になれなかったこのヴェニスの商人アントーニオは、結局、みずからが帰属すべき共同体そのもの、いや、自分そのものを失ってしまい、世界という舞台から没落するほかはない。アントーニオとは、シャイロック同様、資本主義という社会的な力の働きによって「腐った果実のようにいち早く地に落ちてしまう」古い価値体系の象徴にほかならなかったのである>
『ヴェニスの商人』の主人公はアントーニオだと思われているにもかかわらず、実はバッサーニオこそ、鉛の小箱を選ぶことによって「貨幣」の謎を解明した真の「ヴェニスの商人」なのだ、という逆説が示されます。
そして最後に、「劇の冒頭からアントーニオがかかえこんでいた憂鬱――それは、これから自分が演じなければならないこの『悲しい役廻り』を、どこかで予感していた憂鬱であったのにちがいない」と明かされるのです。
さて、7月3日は前回(No.39)すでに予告したように、ベンチャーキャピタリストの村口和孝さんが、この『ヴェニスの商人』を論じてくれました。前半部では、みずからの足跡に重ね合わせながらシェイクスピアとの出会い、投資の体験史や哲学を語り、後半では『ヴェニスの商人』に頻出するいくつかのキーワードを手がかりに、この作品の構造を根底から読み直す試みにチャレンジしました。
お金にかかわるbond(債券、証文)とbound(恩義や負い目など、人と人との心の関係をあらわす)の違いに着目しながら、アントーニオとシャイロックの金銭観、生き方の流儀の違いを解き明かし、登場人物たちの人間関係が物語の進展とともにどのように組み替えられていくかを分析する下りは、現役投資家ならではの実感がふまえられ、実にスリリングでした。
サレーリオ、ソラーニオという紛らわしい名前の2人の端役(アントーニオの友人)が、村口さんには気になる存在だったこともおもしろい発見でした。日頃、ことあるごとに根も葉もない噂(デマ、フェイクニュース)を垂れ流され、まったく無視するわけにもいかないというジレンマは、まさに現代の生きた社会、「世間」と直面している村口さんならではの実感です。
また、3つの小箱選びというおとぎ話のような遺言をのこしたポーシャの父親が、一体どのようにして莫大な資産を築いたのか、という想像はこれまでしたこともありませんでした。「お父様はそりゃあ立派な方でした。聖者の心を持つ人は、死に臨んで素晴らしい考えがひらめくものです」(松岡和子訳)とだけポーシャによって語られる父親は、おそらくアントーニオと同じように、「古代ローマ人」のような美徳と信義に生きた人ではなかったのか、という推論にも説得力を感じました。
アントーニオとポーシャがそれぞれ舞台に登場するやいなや、口々に「どうしてこう気が滅入るのかな」、「ほんとよ、ネリッサ、私の小さな体はこの大きな世界に嫌気がさしてるの」(同)と、メランコリックな心情を吐露します。それはともに、みずからの信奉する価値観が次第に通用しなくなった危機感のあらわれではないか、という見立てもなるほどと思われました。古い価値体系が「腐った果実のようにいち早く地に落ちてしまう」という岩井さんの指摘につらなります。
ともあれ、聞くうちに盛りだくさんの物語の細部が互いに関連づけられ、浮かび上がってくる快感を味わいました。学生時代にシェイクスピア劇に打ち込んだ演出家としての目が、シェイクスピアとともに歩む「東京の投資家」村口和孝の人生を通して、ますます磨かれていくのを見るようでした。
2018年7月5日
ほぼ日の学校長