2018年1月、
ほぼ日の学校が始動しました。

これからいったい、
どういう学校に育っていくのか。

そのプロセスの出来事や、
学校にこめる思いなどを、
学校長・河野通和が
綴っていきます。

ほぼ日の学校長

河野通和(こうの・みちかず)

1953年、岡山市生まれ。編集者。

東京大学文学部ロシア語ロシア文学科卒業。

1978年〜2008年、中央公論社および中央公論新社にて
雑誌『婦人公論』『中央公論』編集長など歴任。

2009年、日本ビジネスプレス特別編集顧問に就任。

2010年〜2017年、新潮社にて『考える人』編集長を務める。

2017年4月に株式会社ほぼ日入社。

ほぼ日の学校長だよりNo.136

よりよい「積読」を!

 「積読(つんどく)」という言葉を最初に教わったのは、中学2年の担任の先生からでした。

 読書の仕方には、声に出して読む、読まないの「音読」「黙読」の別があり、丁寧に読む「精読」、はやく読む「速読」、ズルして読む「流し読み」や「斜め読み」、さらに「飛ばし読み」がある。たくさん本を読むことを「多読」といい、何でもかんでも読むのを「乱読(濫読)」という。では、「買ったけれども読まない」読書を何と呼ぶ?

 ここで、ひと呼吸おいて先生は、「積ん読」と、私たちの顔を眺めてニヤリと皮肉な笑いを浮かべます。

 「積読」はそのように、ありがちだけれども本来そうあってはいけないこと――頭をかきながら恥ずかしそうに、「買ったんだけど積読になっちゃって‥‥」と、「うしろめたい」ニュアンスで口にすべきものだと教わります。

 ところが、私の選んだ職業は編集者。仕事柄、読むべき本は限りなくあって、新刊書はまわりにどんどん積み上がり、とてもすべてをじっくり「完読」するわけにはいきません。デスクや書棚、自宅の壁や床や廊下にも、しだいに「積読」があふれてきます。それにじっと耐え、やり過ごしているのが日々のならいです。

 せめてもの抵抗は、このエントロピーを下げること。未読本に風をあて、積読状況を点検し、新陳代謝をはかること。そこにもっぱら精力を傾けるほかありません。

 そんな「読書生活」を繰り返してきた末に、このたびのコロナウイルス禍が発生しました。人との接触が制限され、外出を控える巣ごもりの状況が訪れて、おのずと身辺を見まわす時間が生まれます。すると、増殖するにまかせていた書棚、床の惨状や、未読本のうず高い山が、いやが上にも目につきます。

 うーん、何とかしなければ‥‥。

 その時、出くわしたのが本書です。書評家の永田希(のぞみ)さんが著した『積読こそが完全な読書術である』(イースト・プレス)という刺激的な1冊です。

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 著者の主張は明快です。本は読まずに積めばいい。読めないことに「うしろめたさ」を覚える必要は一切ない。むしろ「積読」こそが「完全な読書術」だと心得よ!

 どうして、そんなことが言えるのか? まずは読書に対する考え方を少し整理したほうがよいでしょう。そもそも「積読」がうしろめたく思えるのは、対極に「完全な読書」という理想形が措定(そてい)されているからです。

 ところが、それは幻想だと、著者は自信をもって言い切ります。フランスの文学研究者、ピエール・バイヤールが述べるように(『読んでいない本について堂々と語る方法』、ちくま学芸文庫)、「完全なる読書など不可能である」「人間の読書は不可避的に不完全なものである」と、著者も実感をもって語ります。

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 バイヤールは「読書の不完全性」を、
・ぜんぜん読んだことのない本
・ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本
・人から聞いたことがある本
・読んだことはあるが忘れてしまった本
の4段階に区別して、個々に分析を加えます。

 そして、一般的に「未読」と呼ばれるものだけでなく、読み落としや内容の失念、誤読など、私たちが本を読む時に避けることのできない不完全性を、総じて「未読」と称します。

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 気鋭の批評家である千葉雅也さんは、バイヤールの議論をふまえて、次のように語ります。

<読書と言えば、最初の一文字から最後のマルまで「通読」するものだ、というイメージがあるでしょう。けれども、ちょっと真剣に考えればわかることですが、完璧に一字一字すべて読んでいるかなど確かではないし、通読したにしても覚えていることは部分的です。
 通読しても「完璧に」など読んでいないのです。
 ならば、ここからだんだん極論へ行けば、拾い読みは十分に読書だし、目次だけ把握するのでも読書、さらには、タイトルを見ただけだって何かしらのことは「語る」ことができる。
 そもそも人から「本当にちゃんと読んだのですか」と聞かれることはまずありません。というのはなぜか。誰もが、自分の読書が不完全であることが不安であり、そこにツッコミを入れられたくないと思っているからです。>(千葉雅也『勉強の哲学――来たるべきバカのために』、文春文庫)

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 ラーメンの「完食」ならばいざ知らず、本の「完読」というのは、いったいどうやって判定するのか、目安はいたって曖昧です。読書とは、きわめて個人的で、とらえどころのない行為だからです。

 かつて感動した本を数年ぶりに再読すると、何の感興も催(もよお)さないことが稀(まれ)にあります。逆のことも起こります。覚えている内容が断片的だったり、恣意的であったり、記憶は欠落だらけです。読書会をやれば歴然ですが、同じ書物を各人がまさに各様に読んできて、唖然とすることもしばしばです。

 そうした現実の読書のありようをふまえるならば、「完璧な」読書など本来あり得ず、幻影に過ぎないと認識するほかありません。

 バイヤールも千葉さんも、多様な読書(「未読」をふくむ)を肯定的にとらえます。そして、読書においてより重要なのは、「本と本の関係に注意を払う」「本の位置づけを把握する」ことだと語ります。

<勉強を深めるには、多読というか、通読はしなくてもたくさんの書物を「知る」必要があります。頭のなかにブックマップを作る――この書物Aは、Bの影響を受けている、Bの結論はCと対立している、というような位置関係を説明できるようにする。そうすることで、ある分野の森を見渡すことができるようになる。>(同上)

 「大きな文脈」を把握すれば、読者は自らの「方向」を見失わず、迷走することから免れます。大切なのは、自分の関心にそった本を自分の脳内や周辺に取り込むこと。そして、その絶えざる手入れです。

 さて、話を「積読」に戻しましょう。永田希さんが言わんとするのは、「完全な読書」が不可能である以上、「うしろめたさ」など気にせずに、もっと積読すべきである、という読書論の転回です。

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 最近、しばしば言われるのは、情報メディアの発達によって、人の「可処分時間」の奪い合いがますます熾烈化してきたという現実です。紙の本に限らず、電子書籍、漫画、映画、音楽、ゲーム、演劇など、大量のコンテンツが供給され、とてもすべてを体験したり消費したりすることは不可能です。

<返さなければならないメール、こなさなければならないタスク、観たいけどまだ観てない映画、聴きたいけどまだ聴いていない音楽、遊びたいけどまだ遊んでいないゲーム(いわゆる「積みゲー」)、学びたい言語、興味のある学問の分野、そして、読みたいけれどまだ読んでいない本。現代人は、これまで人類が経験したことのない規模の情報を生み出し、それにさらされて生きることを余儀なくされています。それは、人類史上もっとも情報を「積む」人々が無数に発生しているということを意味しているのです。>(永田希、前掲書)

 著者が述べる「積読」とは、まさにこの「読みたい、聴きたい、遊びたい、体験したいという気持ちだけがどんどん『積まれる』状況」に対応します。

 これを「情報の濁流」と著者は呼びます。私たちはこの濁流に否応なしに巻き込まれ、情報の「積読状況」に身をさらして生きています。したがって、問題はいかに「積読」をコントロールするか(メンテナンスするか)、ということです。

 そこで提案されるのが、「ビオトープ的積読環境」の構築です。ビオトープとは生きものたちが暮らす環境のこと、小さな生態系を意味します。

 つまり、加速度的に増え続ける「情報の濁流」から身を守り、自己肯定感を維持するために、セルフメイドの情報環境=自律的な「積読環境」を確立することが大切なのだと――。

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 おそらく今後も、「情報の濁流」はさらに勢いを増すでしょう。そして、容赦なく私たちの「可処分時間」になだれ込み、やみくもな「積読」状況をもたらすでしょう。

 その時、流れに身をまかせてしまっては、人々は自己を肯定するための足場を失い、自己放棄(セルフネグレクト)せざるを得なくなる、というのが、著者を動かす危機感です。

 「情報の濁流」のただなかで溺れ死なないために、いまこそ自分本位の積読を推進すべきだというのが本書です。読めなくてもいいし、読まなくてもいい。読まなくてもいいから、積んだほうがいい。

 つまり、自前の興味関心にもとづいた積読術=個人的なアーカイブとしての「積読」(アクセスできる図書館やクラウドも含む)のすすめです。

 ふと連想したのは、吉川浩満・山本貴光さんの対話『その悩み、エピクテトスならこう言うね』(筑摩書房)の一節です。

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 1世紀半ばの古代ギリシアの哲学者、エピクテトスを現代社会に降臨させ、私たちの生き方を見直そうという対話のなかで、ご両人はエピクテトスの哲学原理を、自らの「権内にあるもの」と「権外にあるもの」との区別を適切に見極めることだと喝破(かっぱ)します。

 「権内」「権外」とは聞き慣れない言葉ですが、「権内にあるもの」とは自分でコントロールできるもの、「権外にあるもの」は自分ではコントロールできないもの、を意味します。つまり、自分の権利、権力、権限の範囲内にあるかどうかの違いです。

<山本 豊かだろうが貧しかろうが、環境に恵まれていようが恵まれていなかろうが、われわれがすべきことは決まっている。それは、権内にあるものと権外にあるものを区別することだ、と。
 吉川 両者の区別をしないせいで、われわれは不必要な悩みにさいなまれるのだ、と。(略)
 山本 人間いかに幸福な状態になれるか。これはエピクテトスにかぎらず、古代ギリシアの哲人たちみんなのテーマだったんだよね。
 吉川 そして、われわれのテーマでもある。
 山本 混乱と恐怖のなかにあってもなお、というか、そうであればなおさら、心安らかに誇りをもって生きていくための指針が必要。
 吉川 それを教えてくれる点こそエピクテトス哲学の魅力だよね。(略)
 山本 自らコントロールできることを十全にコントロールしながら、コントロールできないことにいちいち煩わされることのないような状態、これを目指すこと。
 吉川 先生は、君にできることを存分にやりなさい! それ以外のことには悩む必要なし! 君のせいじゃない! と言ってくれている。>(前掲書)

 例に引かれているのは、元プロ野球選手、松井秀喜さんの言葉です。

「打てないボールは、打たなくていい」

 まさに「情報の濁流」のなかでもがく人たちに、シンプルにして明快な指針を与えます。「情報の濁流」が「権外」のことなら、「ビオトープ的積読環境」は「権内」です。

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 「積読状況」を強いる「権外」のことなどに煩わされず、堂々と欲しい本は積み上げよう! 欲しい本のリストを作るだけでも十分だ! 力強く、背中を押してくれる言葉です。

 最後に、本書『積読こそが完全な読書術である』のブック・デザインにも触れておきたいと思います。写真をみればお分かりのように、積読に配慮がほどこされた背文字です。いうなれば、これからの「読書家」のための、積読にやさしいデザインです。

 といったことに感心しながら、「積読」推奨のこの本を、一気に最後まで読了しました。

books

2020年9月3日

ほぼ日の学校長