ほぼ日の学校長だよりNo.42
「念じてくれ、強く!」
猛暑が続いています。皆さん、お変わりないでしょうか?
さて、次回(7月24日)の講義で「シェイクスピア講座2018」は千秋楽を迎えます。「忠臣蔵」でいえば、「討ち入り→切腹」の回になりますが、これまでの総集編的な講義になるはずです。具体的な内容は、20日の午後に打ち合わせます。
というのも、講師の一人である河合祥一郎さんが、書き下ろしの新作劇「ウィルを待ちながら」(こまばアゴラ劇場、7月4日〜18日)を、自らの演出で上演していたからです。楽日になるのを待って、ようやく打合せという流れです。
15日(日)に、私も舞台を観てきました。予想はしていましたが、この芝居自体が最終講義を“先取り”している観がありました。全編が「シェイクスピアづくし」の構成で、タイトルの「ウィル」は、もちろんウィリアム・シェイクスピアの愛称から来ています。
出演俳優はふたり。1970年代半ばから1981年にかけて渋谷ジァン・ジァンで出口典雄演出、小田島雄志訳のシェイクスピア全作上演を行ったシェイクスピア・シアターの創立メンバーである田代隆秀さん。早稲田小劇場(後の劇団SCOT)や、蜷川幸雄演出のシェイクスピア作品などで活躍し、2016年には河合さんが新訳・演出したベケットの『ゴドーを待ちながら』でエストラゴンを演じた髙山春夫さん。
幕開きは、髙山さん(タカさん)がシェイクスピアを演じ、田代さん(ハルさん)が当時のロンドン宮内大臣一座の看板俳優であったリチャード・バーベッジに扮し、戯曲がなかなか書けないでいるウィルに向かって、「みんな、おまえを待ってんの!」と原稿をせっつく場面から始まります。
「歯もなく目もなく何もなし」(※)というタイトルだけあって、どうやらシェイクスピアの全作品から名セリフを集めた芝居を書くつもりらしい、ということがわかってきます。
暗転すると、サングラスをかけた老人(田代)の乗った車椅子を、もう一人の老人(髙山)がゆっくり押しながら登場してきます。『リア王』第4幕第6場、盲目になったリア王の家臣グロスター伯爵の手を引いて、浮浪者トムに身をやつした実の息子のエドガーが、自分の正体を隠したまま、父グロスターをドーヴァーの断崖へ連れて行く場面だとわかります。
エドガーは父が断崖から飛び降りて死のうとしている気配を察知して、崖っぷちではなく安全な場所に案内します。グロスターは意を決して身を投げ出しますが、前に転倒しただけで、無事に一命は取りとめます。
『リア王』の芝居が演じられているということに加え、劇中劇としてエドガーが盲目のグロスターに“ひと芝居打つ”という二重の構造がここにはあります。さらに田代、髙山という2人の親しい俳優同士が、自分たちの過去の芸歴を振り返りつつ、「死」を前にした人間というもの(役者という存在)に思いをはせ、リアルな現実に対して「鏡」のように掲げられた芝居という想像力の世界を語り合い、「世界はすべて一つの舞台。男も女も、みな役者に過ぎぬ」という『お気に召すまま』第2幕第7場のセリフを掛け合いで演じてみせる――つまり、シェイクスピア劇の本質を探求してゆくという展開が重なります。
ドーヴァーの断崖に向かう道行きの場面が、都合3回、少しずつニュアンスを変えて繰り返されるところは象徴的です。
田代、髙山という二人の役者は、それぞれ“本人”役(タカさん、ハルさん)を引き受けながら、シェイクスピアの名セリフを散りばめた寸劇を演じます。おなじみのセリフが次々に出てきます。『ハムレット』、『マクベス』、『ヴェニスの商人』、『ロミオとジュリエット』、『オセロー』――授業で親しんだフレーズが響きます。『リア王』、『テンペスト』、『リチャード二世』、『ヘンリー四世』から『ヘンリー八世』、『から騒ぎ』、『お気に召すまま』、『夏の夜の夢』‥‥全作品を網羅しています。
写真提供:Kawai Project
撮影:宮内勝
5月29日の公開講座「シェイクスピアの音楽会」で、場内全員で歌った「おいらが小さな餓鬼のころ」――「♬おいらがちっちゃなガキの頃/やれ、ヘイホウ、雨と風。/いたずら赦(ゆる)すが親心。/だって今日も明日(あした)も雨だもの。」(『十二夜』第5幕第1場、『リヤ王』第3幕第2場)――や、みんなで輪唱した『十二夜』第2幕第3場の「この野郎」の歌――「♪黙れ、この野郎黙れ/ばか/黙ればか/ばか」――なども披露されます。
かと思えば、落語「粗忽(そこつ)長屋」の熊五郎が登場したり、『ヴェニスの商人』が落語ふうに語られたり、そこから莊子の「胡蝶の夢」が連想され、アインシュタインのことば「想像力は知識より重要だ。知識とは、今わかっていることに限定されるが、想像力は全世界を包み込む」が飛び出したり、楽しげなコントがいつの間にかシェイクスピアの本質論につながります。
第2回の「シェイクスピア講座」で、河合さんが語った「人生は芝居、人は役者」という「世界劇場(テアトラム・ムンディ)」の概念や、「メメント・モリ(死を想え)」――人は刻一刻と死に近づき、やがては神様のもとに召されるのだから、現世でちゃんとした生き方をしておこう、というシェイクスピア時代の格言に話は広がります。
「俺たちはこの人生っていう舞台から退場する前に、どれだけ立派な生き方をしたかが問われる。この世界劇場で、どれだけいい演技をしてお客の心に俺たちの思いを刻みつけられるか、それが重要だってわけだ。逆説のようだが、俺たちの肉体は消えても、人々の心に刻まれた俺たちの姿は残るんだから」
「死んだあとも人の心で生き続ける。俺はそういう人生を送りたい」
役者も人も、いずれ死ぬ。人生という舞台から退場する。だからこそ、演じられるうちにその役をしっかり演じなければならない――。そうすれば、肉体は滅びても、魂は滅びない。生者の想像力のなかで、ながく(永遠に)生き続けることができる。
『夏の夜の夢』第5幕第1場の有名なセリフを、タカさんが語ります。
「狂人、恋人、そして詩人は、皆、想像力の塊だ。
広大な地獄に収まりきらぬほどの悪魔を見る。
それが狂人だ。恋する者も同じように狂っていて、
色黒のジプシー女の顔に絶世の美女ヘレネの美しさを見る。
詩人の目は、恍惚たる霊感を得て、
天から地へ、地から天へと眺め回し、
想像力が、見たこともないものを
思いつくと、詩人の筆がそれに形を与え、
空気のような実体のないものに
個々の場所と名前を与える。
想像力にはそんな不思議な力がある」
莊子は夢のなかで蝶になり、それがあまりにリアルな夢だったため、夢から醒めたいまが現実なのか、はたまた夢なのか、どちらが夢で、どちらが現実かわからなくなったといいます。
「夢のなかで起こったことに思えても、その体験がリアルだったら、それは現実で起こったことと同じってことだ」とタカさん。まさにシェイクスピア的主題が、徐々に前面にせりあがってきます。
終幕近く、上から舞い落ちてきた紙をハルさんが拾い上げます。そこにはこうありました。
「この遺書をおまえが読むとき、俺はもういなくなっているはずだ。
長いあいだ、俺とおまえ、一緒に歩んできた。
俺は先に行くが、おまえは俺の分も生きてくれ。
おまえのおかげですばらしい時間が過ごせたことを感謝している」
先立ったタカさんからハルさんに宛てた「遺書」でした。題名の「ウィル」には、「遺書(ウィル)」の意味も含まれていました。それを「待って」いたのです、二人でゴドーを待つように――。
そして、「最後に一つお願いがある」と、遺書は続きます。
「俺は死んでも芝居がやりたい。
俺が言ってたこと、覚えているかな。
想像力は現実を生み出すって。
想像してほしいんだ、俺を。
ハルさんと一緒に芝居をやってる俺を。
俺をハルさんの心に蘇らせてくれ。そして、二人で一緒に芝居をやろうよ。(略)ハルさん。俺を蘇らせてくれ。ハルさんの心のなかで俺を念じてくれ。強く」
この「強く」念じる力に見合うくらい、最後にドサッ、ドサッと大量の本が二人の役者の上に降ってきます。天井から、舞台の背景だった書棚から、凄まじい音をたてて、本が崩れ落ちてくる演出です。想像力の産物である本が、現実の世界を揺るがし、役者の肉体を打ちます。イメージの力を誰より信じたのがシェイクスピアだった、と告げるかのように――。
さて、本を降らせる手法は繰り返しませんが、400年前の劇作家を私たちの心のなかに蘇らせようとした「シェイクスピア講座2018」をどう締めくくるか。頭のなかには、いろいろなアイディアが点滅しています。河合さん、木村龍之介さん、松岡和子さんらが集まる最終講義の打合せは、明日(20日)の予定です。
2018年7月19日
ほぼ日の学校長