2018年1月、
ほぼ日の学校が始動しました。

これからいったい、
どういう学校に育っていくのか。

そのプロセスの出来事や、
学校にこめる思いなどを、
学校長・河野通和が
綴っていきます。

ほぼ日の学校長

河野通和(こうの・みちかず)

1953年、岡山市生まれ。編集者。

東京大学文学部ロシア語ロシア文学科卒業。

1978年〜2008年、中央公論社および中央公論新社にて
雑誌『婦人公論』『中央公論』編集長など歴任。

2009年、日本ビジネスプレス特別編集顧問に就任。

2010年〜2017年、新潮社にて『考える人』編集長を務める。

2017年4月に株式会社ほぼ日入社。

ほぼ日の学校長だよりNo.55

『枕草子』で、シッポがパタパタ

 10月29日、「ほぼ日の学校番外編 たらればさん、SNSと枕草子を語る。」というトーク・イベントを行いました。今後どんどん手がけていきたい“課外授業”の試みです。

 「たられば」さんについては、改めてご紹介するまでもないと思います。9月に「ほぼ日」サイトで「なぜいま『枕草子』なの? 人生の窮地に立たされてなお、この世界を祝福するものがたり。」という3回の連載をお願いしました。今度の「番外編」の予告篇にあたります。

 「たられば」というのは、現在フォロワーが約13万5000人もいる人気ツイッター・アカウントです(アイコンはつぶらな瞳のゴールデンレトリバー!)。漫画、アニメから、古典文学、スポーツ、暮らしの話題、政治、社会問題まで、幅広いテーマで切れ味のいいツイートを繰り出します。糸井重里さんも熱心なフォロワーのひとりです。

 私たち「ほぼ日の学校」が、とりわけ強く惹きつけられたのは、日本の古典文学――なかんずく『源氏物語』、『枕草子』について熱く語るツイートです。その文章から溢れ出る“古典愛”にナマで接していただく「たらればさんが語る、SNSと枕草子」というのが、この日の第1部。

 第2部は「山本淳子先生と語る、枕草子の世界」と題して、平安文学の研究者であり、たらればさんが敬愛してやまない山本淳子さん(京都学園大学人文学部教授)をスペシャル・ゲストにお迎えして、たらればさんと私がいろいろ教えていただくという趣向です。

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 「いまの時代、特にSNSが好きな人にとって、『枕草子』は相性がぴったり」と語るたらればさん。『枕草子』は日本で最初の随筆集であり、また日本語で書かれた最古の「よかった探し」であると、歴史的、現代的な意味を強調します。

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 「よかった探し」、つまり世の中の「すてきなもの」、「おもしろい出来事」を発見し、それを的確なことばで表現し、人生は生きるに値するものである、と世界を言祝(ことほ)ぐメッセージを送った先駆者が清少納言だというわけです。

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 なぜ1000年も昔に、そういう作品を書こうと思いたったのか――執筆の動機、創作の意図、作品成立の背景など、少し興味を持ち始めると、どんどん知りたいことが湧いてきます。作品の謎が多いだけに、なおさらです。

 推定年齢28歳にして初の女房(にょうぼう)仕えをし、目も眩むような思いを味わったに違いない宮廷生活のありさまや、四季折々の情趣、日常の“心にうつりゆくよしなしごと”を、鋭い美意識と批評眼で鮮やかにとらえ、それを書き留めることに無上の喜びと生きがいを感じていた清少納言には、生涯をかけてこの相手になら自分を委ねてもいいと思える憧れと敬愛の対象がありました。

 長編小説『むかし・あけぼの 小説枕草子』(文春文庫)の作者、田辺聖子さんはこう述べています。

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<清少納言が幸福だったのは、人生で二度とめぐり合えないようなすてきな女性と出会ったことです。一条天皇の中宮となった定子(ていし)です。日本人の女性のなかで、定子中宮ほど立派な人はいなかったのではないでしょうか。ユーモアがあって、学問があって、心だてが優しくて、しかも大変な美人だったそうです。お父さんの藤原道隆(みちたか)に掌中の珠(たま)と育(はぐく)まれ、さまざまな学問を学び、朗らかな明るい女性に育ちました。
 やがて一族の期待を一身に担って、一条天皇の後宮(こうきゅう)へ入内(じゅだい)します。一条天皇は、定子より三、四歳年下でしたけれど、大変すぐれた賢帝で、心持ちがなだらかな方でした。一条天皇と中宮定子は本当に相思相愛の仲でした。そういう中宮定子に仕えて、清少納言はあこがれと敬愛の念を捧げ、「中宮定子様のことを書きたい。これが書ければ、人生が書けたのと同じことだわ」と、中宮定子賛美の文章を綴りました。>(『田辺聖子の古典まんだら』、新潮文庫

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 しかし、その美しく聡明な中宮定子は、父・藤原道隆の死後に起きた壮絶な権力闘争によって悲劇的な運命に見舞われます。一条天皇との婚姻から10年、清少納言出仕から7年、父の死から5年――第3子を出産した直後の1000年12月16日、失意のうちに没します。享年24歳でした。

 父の死後、末弟の藤原道長が権力者として台頭するにつれ、定子の周辺には暗雲が垂れ込めます。繰り返し、迫害が及びます。まさにその時、本格的に書き始められた『枕草子』は、理想の后(きさき)としての定子の像を、そして輝かしかったその雅(みやび)の空間を、幸福な明るいトーンで、肯定的に描きあげようとした作品です。

 定子が生きている間は彼女の心をなごませるために、その没後は追悼と鎮魂の思いをこめて、ひたすら定子に対するオマージュを捧げようとしたのが『枕草子』なのだと、山本淳子さんは述べています。

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<闇の中にあって闇を書いていないのは、清少納言自身がそう意図したからだ。何はさておき、定子のために作ったのだ。定子の生前には、定子が楽しむように。その死を受けては、定子の魂が鎮(しず)められるように。皆が定子を忘れぬように。これが清少納言の企てだった。>(山本淳子『枕草子のたくらみ』、朝日新聞出版

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 「いかに負けるか。負けたあとどう振る舞うか。毅然と、美しく、思い出を紡ぐことができるのか。ここに私は、清少納言の『覚悟』を感じます」とたらればさんも語ります。

<時代は変わる。環境も変わる。
 権力は移ろいやすく、そのなかで多くの人が生き、死んでゆきます。・・・・
 それでもあの、短いけれど美しく気高い時間と空間は、永遠に遺すべき価値あるものだ。
 ほかならぬわたしが遺すのだ。
 あそこで名付けられ、あそこで生きがいを得た、わたしが遺すのだ。
 それこそが、わたしの生まれた意義なのだ。
 清少納言はそう考えたのではないでしょうか。>

 たらればさんが、「これだけは覚えて帰ってください」と、この日とくに強調したポイントです。

 『枕草子』を最初に学校で教わった時、「春は、あけぼの」の冒頭はすぐに諳(そら)んじました。日本の自然の美しさ、四季の情趣をこれほど簡潔に、見事に凝縮した文章は他に見当たりません。日を追うごとに、真価を思い知るようになりました。

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 もう一方の、「香炉峰(こうろほう)の雪」については、微妙な印象を抱きました。セレブ意識がちょっと鼻についたのです。それが定子後宮の雅びなのでしょうが‥‥。

<雪がずいぶん高く積もった日のこと。御前(おまえ)の女房たちは、いつになく御格子(みこうし)を下ろし、火鉢に火をおこしておしゃべりなどに興じていた。するとその時、定子様が、「少納言よ、香炉峰の雪はどんなかしら」と、私に仰せになった。そこで私は、御格子を上げさせ、御簾を自分の手で高く上げて、中宮様に外の雪景色をお見せした。すると中宮様はにっこりと笑って下さった。>(『枕草子』第280段「雪のいと高う降りたるを、例ならず御格子まゐりて」、山本淳子訳、前掲書)

 中宮定子と清少納言が共有していた漢学の素養――白居易の詩の一節「遺愛寺ノ鐘ハ枕ヲ欹(ソバダ)テテ聴キ 香炉峰ノ雪ハ簾ヲ撥(カカ)ゲテ看(ミ)ル」――が物をいい、「さすが中宮様づきの女房だけのことはある」と、清少納言の機知と機転が評価されたというエピソードです。

 第78段にも似たような話が出てきます。こちらは定子でなく、イケメンで才気あふれる頭中将(とうのちゅうじょう)藤原斉信(ただのぶ)という蔵人頭(くろうどのとう)が登場します。

 ある時期、斉信は、清少納言に関する噂ばなしを真に受けて、たいそう立腹していました。「なんであんな女のことを褒めていたのだろう」と彼女を露骨に避けるようになりました。2月末のある雨の夜、その斉信から清少納言に手紙が届きます。文使いの者は、「ご返事を早く」と急かします。「いいからお帰りなさい。あとで読みますから」と言うと、すぐまたそのメッセンジャーが戻ってきて、「すぐに返事がもらえないのだったら、手紙を返してもらってこい」と命じられたといいます。

 手紙を開いて見ると、「蘭省花時錦帳下(らんしょうのはなのとき、きんちょうのもと)」と、“美しい薄様紙(うすようがみ)にこれまた美しい筆跡”で書かれてあって、「末はいかに、末はいかに」と次の句を問うています。

 これも白居易の詩の一節で、「友人たちは蘭省にいて、花の時期には天子の錦帳の下で働いている」(山本淳子訳、前掲書)という意味です。

 清少納言は当然次の句を知っています。「廬山草堂夜雨独宿(ろざんのそうどうよるのあめにひとりやどす)」。すなわち、「私は遠く廬山の麓(ふもと)にいて、雨の夜には草庵の中にこもっている」という詩句ですが、実はこれをそのまま書くわけにいかない事情がありました。

<当時、漢詩文の素養は最高の教養であったが、漢詩自体を書いたり作ったりするのは男性の世界のことと考えられていたからだ。女性は漢詩文について知っていてもよいが、それをそのまま書くことは、女だてらに出過ぎたことと責められた。斉信の難問はそこを突いたものだったのだ。>(前掲書)

 この難題にどう答えるか。「こんな時、定子さまがいらしてくださったら」などと思いながら、清少納言はとっさに「草の庵(いほり)を誰(たれ)かたづねむ」と火鉢の消し炭を使って返事を書きます。漢詩句を和歌に変えて、しかも和歌の達人、藤原公任(きんとう)が当の白居易の詩に基づいて詠んだ下の句を書いて返したのです。非の打ち所のない切り返しでした。

 翌朝、斉信のお取り巻きのひとり、源中将・源宣方(みなもとののぶかた)がやってきて、「いまから君のあだ名は“草の庵“だ」と言います。清少納言の元夫である橘則光(たちばなののりみつ)までいそいそとあらわれ、みんながすっかり感心して、「たいした女だ」と口々に褒めそやすので嬉しかった、と。

 斉信ら蔵人たちは、清少納言の完璧な答えにうなります。なんとか上の句をつけて返信しようと試しますが、夜中までやって結局ギブ・アップ。この話は帝にも大ウケで、頭中将のご機嫌もすっかり直ったばかりか、「これは将来にわたって語り草にすべきこと」と、最高の評価をくだします。「草の庵を誰かたづねむ」と書かれた扇まで流行になったという話です。

 “打てば響く”才気煥発の清少納言。凄い、と思う一方で、これだけ頭が良く、向こう気が強く、プライドの高い才女というのは、やや才走って、周囲から浮いてしまったのではないか(疎まれてはいなかったか)と思わなくもありません。

 ところが、『枕草子』の書かれた背景、作品全体の核心を知れば知るほど、この勝ち気な才女の内面により多くの共感と興味を覚えるようになりました。山本淳子さんの著作を読むにつれ、たらればさんの一途な『枕草子』愛を浴びるほどに、清少納言のまなざしに思いを重ねるようになりました。

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 トーク・イベントでは、清少納言と紫式部との“ライバル物語”など、会場内がわく“鉄板”の話題も出ましたが、今回の主役は何といっても、たらればさんです。「ボクが一番の役得でした」というご当人の言葉どおり、「自分が好きなことを愛をこめて語っている姿が印象的でした」、「たらればさんから、シアワセのお裾分けをしてもらったような気分です」、「たらればさんは、犬ではなくてヒトでしたが、どこかアイコンのワンちゃんに似ているように感じます」、「たらればさんは、ずーっとシッポがパタパタしてた」といった感想が、次々と、いつまでもツイートされました。

*「たらればさん、SNSと枕草子を語る。」の模様は、後日、オンライン・クラスでご覧いただけるようにする予定です。

2018年11月1日

ほぼ日の学校長

イラストレーション:ゴトウマサフミ

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