ほぼ日の学校長だよりNo.21
「名セリフあれこれ」
河合祥一郎さんの手になる「シェイクスピア講座2018」の副読本には、「シェイクスピアの名台詞」という1章が設けられていて、30種の代表的なセリフが挙げられています。
たとえば、『リチャード三世』第5幕第4場に出てくる名セリフがあります。「馬だ! 馬だ! 王国をくれてやるから馬をよこせ!」(河合祥一郎訳、角川文庫)です。
A horse, a horse, my kingdom for a horse!
薔薇(ばら)戦争のなかでも重要なボズワースの戦いで、馬を殺された国王リチャード三世が思わず叫ぶセリフです。
河合さんの講義を聞いた後では、このセリフが詩(韻文)でできていて、1行のなかに強く読むところが5ヵ所ある弱強五歩格の韻律だということがわかります。horse、horse、king〜、for、horseの部分です。
このように、名セリフは意味や内容だけでなく、その場面において俳優が声に出し身体全体で表現する、歌うような調子のリズムによって、強く観客の心を揺さぶります。
実は、2週間ほど前から、オンラインクラス用のテキストのために「名セリフ」の粗選びを始めていたのですが、河合さんのおかげで手間が省けました(かな?)
ただ、それに選ばれなかったセリフのなかに、愛着のあるものがいくつかあります。高校生の頃に丸暗記したフレーズです。シェイクスピアのセリフだと教わったものもあれば、そうとは知らなかったものもあります。
きっとお馴染みのセリフが多いと思います。とりわけ有名なのは、「輝くもの、必ずしも金ならず」――。『ヴェニスの商人』第2幕第7場に出てきます。
All that glitters is not gold.
ポーシャに求婚しているモロッコ大公は、金、銀、鉛の3つの小箱を渡され、彼女の絵姿が入っている箱を選びあてたら、望みがかなうと言われます。彼は「我を選ぶ者は、己にふさわしいものを得るべし」と銘が刻まれている金の小箱を選びます。すると、なかには腐った髑髏(しゃれこうべ)が入っていて、空洞の目にささった巻紙には、「光るもの必ずしも金ならず。そう耳にしたことは何度もあるはず」(河合訳、角川文庫)と書きつけられていました。モロッコ大公は、求婚に失敗し、退場します。
「私にはちんぷんかんぷんだ」は、『ジュリアス・シーザー』第1幕第2場に出てきます。原文は過去形ですが、
It’s Greek to me.
ギリシア語がわからない者には「まるで意味不明だ」という決まり文句になりました。
それから『ハムレット』第1幕第5場に出てくるのが「いまの世の中はたがが外れている」というセリフ。しばしば英字紙の見出しや、雑誌のタイトルなどで見かけます。
The time is out of joint.
以下、懐かしいフレーズを列挙します。
・「人生は退屈なものだ、二度語られた物語のように」(『ジョン王』第3幕第4場)
Life is as tedious as a twice-told tale.
・「良心など、臆病者が使うことばにすぎぬ」(『リチャード三世』第5幕第3場)
Conscience is but a word that cowards use.
・「いままで起きたこと(過去)は前口上だ」(『テンペスト』第2幕第1場)
What’s past is prologue.
・「おしゃべりは行動下手」(『リチャード三世』第1幕第3場)
Talkers are no good doers.
このセリフはグロスター公リチャードが、兄のクレランス公ジョージを殺すために雇った2人の悪党(殺し屋)と話す場面に出てきます。河合訳(角川文庫)では「舌を動かす奴は手が動かない」とあり、「俺たちゃ、手を使います。舌じゃない」と続きます。ハードボイルドです。
・「名誉の撤退をしよう」(『お気に召すまま』第3幕第2場)
Let us make an honourable retreat.
・「私のシーザーへの愛情が足りなかったからではなく、私がシーザーを愛した以上にローマを愛したからだ」(『ジュリアス・シーザー』第3幕第2場)
Not that I loved Caesar less, but that I loved Rome more.
「ローマ市民、わが同胞、愛する友たちよ!」と呼びかけるブルータスの演説の一節です。リズムが心地よかったのだと思います。不思議とよく覚えています。これもシェイクスピア・マジックなのでしょう。
さて、前回の講義の最後で、河合さんが『お気に召すまま』第2幕第7場の有名なセリフを披露してくれました。
「この世はすべて舞台。男も女もみな役者に過ぎぬ。退場があって、登場があって、一人が自分の出番にいろいろな役を演じる。その幕は七つの時代から成っている」という名言です。
世界という劇場のなかで人生を芝居、人を役者にたとえる「世界劇場(テアトルム・ムンディ)」の概念は、エリザベス朝演劇全般をつらぬく考え方だという説明でした。
ただ、「七つの時代」というのが具体的に何を指すのか、その先を確かめたくなりました。非常に長いセリフですが、松岡和子さんの訳で読んでみましょう。
「この世界すべてが一つの舞台、
人はみな男も女も役者にすぎない。
それぞれに登場があり、退場がある、
出場(でば)がくれば一人一人が様々な役を演じる、
年齢に応じて七幕に分かれているのだ。第一幕は赤ん坊、
乳母の腕に抱かれてぐずったりもどしたり。
お次は泣き虫の小学生、カバンを掛け
輝く朝日を顔に受け、足取りはカタツムリ、
いやいやながら学校へ。その次は恋する男、
かまどのように熱い溜め息をつきながら、嘆きを込めて
恋人の眉を称える歌を書く。お次は軍人、
あやしげな誓いの文句を並べ立て、豹(ひょう)そこのけの髭を生やし、
名誉ばかりを気にかけて、癇癪(かんしゃく)持ちで喧嘩っぱやく、
大砲の筒口(つつくち)の前で求めるものは
あぶくのような名声のみ。それに続くは裁判官、
賄賂(わいろ)のニワトリを詰め込んだ丸い見事な太鼓腹、
眼光するどく、髭いかめしく、口に出すのは
もっともらしい格言や、通り一遍の判例ばかり、
そうやって自分の役を演じてみせる。場面かわって第六幕は
痩せこけてスリッパをはいた耄碌(もうろく)じじい、
鼻には眼鏡、腰には巾着(きんちゃく)、
大事にとっておいた若いころのタイツも
しなびた脛(すね)にはブカブカだ。男っぽかった大声も
かん高い子供の声に逆戻り、ピーピー、ヒューヒュー
震えて響く。いよいよ最後の幕切れだ、
波瀾万丈、奇々怪々のこの一代記を締めくくる
二度目の赤ん坊、完全な忘却、
歯も無く、目も無く、味も無く、何も無し。」
(『シェイクスピア全集15 お気に召すまま』、ちくま文庫)
日本語訳のリズムも心地よく、シェイクスピアの実体験と思われる描写もあって、とても興味深いセリフです。
2018年2月8日
ほぼ日の学校長