ほぼ日の学校長だよりNo.25
「魯迅からの手紙」
井上ひさし氏の戯曲『シャンハイムーン』(こまつ座&世田谷パブリックシアター)を観てきました。これまで上演されたどの回にもまして、感銘を受けました。
野村萬斎さんはじめ、芸達者な役者が顔を揃えています。井上作品のなかでもせりふの占める役割がとりわけ大きな芝居なので、演技陣の表現力は決定的です。
途中、目を閉じてせりふに聞き入っている時間がしばしばありました。登場人物がひとりひとり、自らの体験を静かに語り出します。それが次々に連鎖して、より大きな物語が紡がれていきます。まっすぐで虚飾のないことばの流れに身をまかせているのが、これほど心地よいものかと感じてしまうのは、そうでないことのほうが多い「ことばの現在」があるからでしょう。
日中戦争が起こる直前、1934年の8月から9月にかけての上海が舞台です。『阿Q正伝』『狂人日記』などで知られる中国人作家・魯迅(ろじん、1881年〜1936年)をめぐる群像劇です。
国民党政府の思想弾圧を受け、北京から上海に逃げてきた魯迅と、彼の潜伏生活を支える4人の日本人たちの交流を、豊かなことばであたたかく、ユーモラスに描きます。
4人とは、日本の書籍を販売している内山書店(現在、神田神保町のすずらん通りにある中国専門書店の前身)の内山完造・美喜夫妻、魯迅の主治医であった須藤五百三(いおぞう)、魯迅のデスマスクをとった歯科医・奥田愛三という人たちです。そして魯迅の傍らには、教え子で“第2夫人”の許広平がいます。
井上芝居らしくドタバタあり、ことば遊びあり、笑いにあふれています。趣向は喜劇です。けれども、私たちはこの幕切れの後に、現実の出来事として何が起こり、どういう未来が待ち受けていたのかを、すでに知っています。
抗日運動を支持しながらも、同時に日本人をこよなく愛した魯迅は、彼に敬意を抱く日本人の献身によって庇護されます。病身をおして、危険の迫る上海にとどまります。しかし、病状は悪化し、1936年10月19日、ついに55年の生涯を閉じます。
翌年、日中戦争が勃発し、やがて日本は太平洋戦争へと突き進んでいきます。魯迅が夢をつなごうとした世界は、もろくも崩れ去ってしまいます。そのことを知り尽くした上で、私たちはこの舞台を観ています。
加えて昨今は、暴力的なことばがややもすると飛び交い、殺伐とした空気がただよっています。そのことが、この作品のたたえている哀しみを、いっそう切なく、貴重なものと感じさせます。ことばによってつながる人と人との信頼と敬意が、『シャンハイムーン』のメッセージだからです。
芝居のなかで、小さな挿話として語られる魯迅の作品があります。私自身、何度も読み返した作品です。「藤野先生」という短いエッセイ。
魯迅は23歳の年に、仙台の医学専門学校(現東北大学医学部)に入学します。学費免除の国費留学生として、1年半在籍します。その時の恩師が藤野厳九郎(げんくろう)先生でした。ある日、魯迅は彼の研究室に呼ばれます。
<「私の講義ですが、君はノートが取れますか」と先生はたずねた。
「少し取れます」
「それなら見せてごらん」
僕が講義ノートを渡すと、先生は受け取り、二、三日後に返してくれただけでなく、今後は毎週持ってきて見せるように、と言った。返してもらったノートを開けて、僕はひどく驚くと同時に、不安と感激を覚えた。なんと僕のノートは最初から最後まで、赤ペンで加筆修正されており、さらに取り損ねた部分がたくさん書き足されており、文法的な間違いも、一つ一つ訂正してあるのだ。これが先生の担任科目が終わるまで続いた――骨学、血管学、神経学だ>(「藤野先生」藤井省三訳、『故郷/阿Q正伝』光文社古典新訳文庫)
この時のノートは、魯迅自ら厚い表紙の3冊に装幀し、「永久の記念」として大切に保管していたはずですが、転居の際に失われた、とされてきました。ところが、1951年に彼の故郷の紹興で発見されます。
写真で見ると、いかにも藤野先生の文字だと思われる細かい文字がびっしりと書き込まれています。「頁が赤く見えるほど」の朱筆だと、井上さんは記しています(井上ひさし「魯迅の講義ノート」、劇場プログラムより)。
<仙台の冬は、風が冷たい。学校から帰ると、魯迅は、唐辛子を齧(かじ)りながら布団にくるまって本を読んでいた。唐辛子をたべると体がぽかぽかしてくる。唐辛子が彼のストーブだったわけだ。(中略)
もうひとつ、魯迅を熱くしていたものがあったかもしれない。講義ノートに書き込まれた藤野先生の朱筆が魯迅の心を熱くしていたのではないか。黒い詰襟の服の上につんつるてんの古外套をまとい、色黒の痩せこけた顔に馬鹿でかい八字髭を生やし、ずり落ちそうになる眼鏡を直しながら、自分の研究のためにいつも頭蓋骨を抱えて学校と自宅とを往復するので、しばしば巡査に怪しまれ、誰何(すいか)されている、ちょっと眇(すがめ)の、七つ年上の日本人教授の姿を思い浮かべるたびに、魯迅は芯から暖かくなったのではないか>(同上)
この光景こそ、自分に『シャンハイムーン』という戯曲を書かせてくれた、と井上さんは述べています。
「藤野先生」という小品の存在を教えてくれたのは、大学1年のときの東洋史の教授でした。こちらも変わった先生でした。授業にはろくに出ませんでしたが、その先生の勧めてくれた本は、片っ端から読みました。「藤野先生」もそうでした。
世の中に美しい日本人がいるとすれば、藤野先生のような人なのだろうと思いました。ただ、藤野先生には“誇るべき学歴”がなかったために、また学内政治に無関心だったために、仙台医学専門学校が新設の東北帝国大学医学部に吸収される際、大学に残ることができませんでした(その事実を『シャンハイムーン』で初めて知りました)。1918年からは郷里の福井県で耳鼻咽喉科医院を開業し、1945年8月11日に71歳で亡くなったそうです。
魯迅は、2年目の半ばに、急速に医学に対する関心を失い、仙台を去ります。その決意を告げたとき、「先生は悲しそうな表情を浮かべ、何か言いたそうではあったが、結局何も言わなかった」といいます。
<仙台を去る数日前に、先生は僕を自宅に呼んで、一枚の写真をくださり、その裏には「惜別」の二文字を書いておられ、僕のを一枚欲しい、と先生は言った。ところがあいにくこのときの僕には写真がなく、先生は将来撮影したら郵送するように、そして折にふれ手紙を書いて今後の境遇を知らせるように、と繰り返しおっしゃった。
僕は仙台を離れた後、何年も写真を撮ることもなく、境遇も思わしくなく、話したところできっと先生を失望させるだけなので、手紙さえ書けなかった。過ぎ去りし歳月が多くなるほど、さらに話の書きようもなくなり、ときに手紙を書こうと思っても、やはり書き出しにくく、こうして今に至るまで、一通の手紙も一枚の写真も送ったことがない。先生から見れば、出て行ったきり、まったく音沙汰なしなのだ>(「藤野先生」、同)
魯迅は決して聖人君子ではなく、欠点も厭なところもたくさん持ち合わせた人間くさい人間だったと思います。けれども、彼のもっともすぐれたことばによって、藤野先生の人物像は、私たちのもとに一通の手紙として届けられました。このメッセージを改めて噛みしめています。
2018年3月8日
ほぼ日の学校長
写真提供:こまつ座&世田谷パブリックシアター
撮影:細野晋司