ほぼ日の学校長だよりNo.14
「教師の『贈り物』」
土曜、日曜の2日間、岡山へ行きました。
先々週の土曜日(12月9日)には、ほぼ日手帳 ミーティングキャラバンが倉敷を訪れていますから、このところほぼ日は岡山づいているみたいです。
土曜日は岡山大学で対談形式の講義を、日曜日は同じ形のトーク・イベントを「スロウな本屋」という2年前の春にできたユニークな書店で行いました。
企画をコーディネートし、聞き手をつとめてくれたのは、岡山大学大学院社会文化科学研究科/文学部准教授の松村圭一郎さん。1975年、熊本生まれという若い文化人類学者です。
岡山大学での講義には、大学生(大学院生含む)が40人、高校生7人、一般100人の計147人が参加。休憩をはさんで、第1部が「いま僕らに人文学が必要な理由」、第2部が「『ことば』はこうして生き残る」という2部構成でした。それぞれ約45分なので、ややタイトな時間割です。
第1部は、「ほぼ日の学校」についての質問から始まりました。なぜほぼ日は、いま学校をつくったのか、しかも「古典」を学ぶ学校を? 続いて、古典を学ぶことの意味とは? そして、なぜ最初の講座に「シェイクスピア」を選んだのか?
3問たて続けに、勢いよく直球が投げ込まれました。第1問、第2問については、折々このメルマガでも触れてきたつもりですが、第3問については、まだです。1月にシェイクスピア講座が実際に始まったら、と思っていたからです。
今回ポイントになったのは、最近の大学改革論議に関することでした。というのも、大学の英文学科で「いまだにシェイクスピアの文学作品が講義に使われている」というのが紋切型の批判になっているからです。
ほぼ日はそれを意識して、あえてシェイクスピアをぶつけてきたのか、という問いでした。
ことの順序からいうと、そういう経緯はまったくありません。シェイクスピアをやることは独自の発想で決めたことでした。ただ、世間にそのような文脈が生まれていることは当然気づいていましたし、それはわれわれのモチベーションを大いに高めてもくれました。
今回初めて知りましたが、この「シェイクスピア批判(?)」は、2014年9月19日に政府の「まち・ひと・しごと創生会議」の説明資料として、審議会のあるメンバーが作成したペーパーが発端になったようです。
経済のグローバル化が進展し、日本の経済構造、労働市場が大きく転換しているなかで、“Top Tier”(ママ、一流?)校・学部は「グローバルで通用する極めて高度なプロフェッショナル人材の排出(ママ)」をめざすべきだが、その他の大学・学部は「生産性向上に資するスキル保持者の排出(ママ)」に特化すべきだ、という提言です(*)。
極少の“Top Tier”校・学部以外の、大半の大学はL型(ローカル経済圏)大学と位置づけ、「学問」よりも「実践力」を、とあります。「職業訓練校化する議論も射程に!」という文言も――。
その議論のなかで、L型大学の英文学部で学ぶべきなのは、「シェイクスピア」ではなく、「観光業で必要となる英語、地元の歴史・文化の名所説明力」と記されています。予想以上に挑発的でした。
大学の人文系の教育現場が激しく反発した理由もわかります。大学は、国家やグローバル企業の目的に奉仕する「人材」育成機関ではない。世の中ですぐに役に立つような職業スキルだけを教える場でもない。
むしろそうではない「ノイズ」――お定まりの価値観や常識を揺さぶる多様な考え方――に接し、世界を見る新たな遠近法や、たくましい思考力を磨くこと。それこそが学びの「場」にとっての本質ではないか、という矜持(きょうじ)があるからです。
いずれにせよ、ほぼ日の学校は、シェイクスピアを学ぶことはおもしろい、というところに焦点を定めています。そのおもしろさに惹かれてさまざまな感性や経験を持った人たちが集まり、それぞれに心が震えるような体験をするならば、それは必ず何か新しい動きにつながるはずだ、そういう場をめざしたい――そんな話をしました。
受けた質問の背景には、自由な学びの場としての大学への危機感があったのだと思います。東京に戻る新幹線の中で、松村さんの近著『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)を読み返しました。すると、私が答えたようなことは、すでに松村さん自身が見事に語っていることに気づきました。たとえば、次の文章です。
<学生は、大学の授業の内容なんて、やがて忘れる。自分も大学で受けた講義の中身は、ほとんど覚えていない。それがどんな役に立つのか、目に見える成果がいつあらわれるのか、教員にも、学生にも、前もってわかるものばかりではない。
おそらく学生に残るのは、教壇の前で誰かがなにかを伝えようとしていた、その「熱」だけだ。学生のなかで、その「熱」が次のどんなエネルギーに変わるのか、教員の側であらかじめ決めることはできない。そもそも学生たちは、何者にでもなりうる可能性を秘めている。授業で語られる言葉、そこで喚起される「学び」は、相手の必要を満足させる「商品」ではない。どう受けとってもらえるかわからないまま、なににつながるかが未定のまま手渡される「贈り物」なのだ>
そして、続きます。
<贈り物に込められた思いが、モノを介して間接的に受けとった人になんらかの感情を引き起こすように、授業で話されている中身は、予測できない別のことが聞き手のなかに生じるための媒介にすぎない>
まさにシェイクスピアは、そのための格好のテーマです。講師のひとりである演出家の木村龍之介さんが「シェイクスピアは五臓六腑で出会うもの」という言い方をしていますが、それぞれの人が全身でまるごと受け止め、そこに思いもかけなかった「自覚」や「気づき」が生まれる媒介としてシェイクスピアがあります。学校はその時、メディアになります。そこから新たな物語が始まります。
フロアからは、いろいろな質問がありました。
「医学部に限った話ではないが、大学において人文学に触れる機会があまりにも少ないと思う。たとえば、医師の人文学離れについて、どう思うか」
「新商品のものづくりなどをしている技術者にとって、いま考え、学ぶべきことは何だと思うか?」
「就活や日本の働き方がおかしいというのはうすうす気がついていますが、じゃあどうしたら変わるのでしょうか。就活で選ばれなければ生活できないのではないかと思うので、選ばれやすい戦士になりそうですが‥‥」
以上はほんの一部です。大切なのは、問いかける力だと思います。正しい問いを見つけることができたなら、思考はそこから動き始めます。あとは答えを性急に求めないこと。焦らず、ゆったり構えること。
クイックレスポンス、サービスのスピード化が文明の潮流になっていますが、時間を短縮することがあまりに私たちの強迫観念になってはいないでしょうか。世の中には一定の熟成期間を必要とするものがたくさんあります。ワインや発酵食品についてはそのメカニズムをよく理解している人が、こと自分に関しては性急に答えを求めたがるのは、見ようによっては奇妙な光景です。
時間をかけないと、容易に答えが見つからない問いはたくさんあります。一生かかっても、何世代かかっても、答えが得られない問いもままあります。
日曜日の「スロウな本屋」はさらにリラックスした感じで、20人ほどの人たちを前に話しました。戦前に建てられたという三軒長屋を改装した本屋さんで、「スロウな」という店名がいかにも似つかわしい雰囲気です。
ねじ巻き式の壁かけ時計が「ボーン、ボーン」と時を告げてもおかしくないような空間。トークの最後に、店主の小倉みゆきさんから尋ねられました。
「今年は一年かけてメイ・サートンの読書会をやってきました。来年、ここで読んだらいいと思う古典は何かありますか?」
宿題にさせていただき、帰りの新幹線で考えました。女性が多い(であろう)読書会、岡山という土地柄‥‥あれこれ考えて、ゆっくり答えを探そうと思いましたが、来年と聞くと、これは「クイック」の必要がありそうです。
ヘンリー・ソロー『森の生活』(小学館文庫)あたりはどうでしょう? すでにやっているとすれば、チャールズ・ラム『エリア随筆』(南條竹則さんの新訳)では、いかがでしょう?
2017年12月20日
ほぼ日の学校長
*「我が国の産業構造と労働市場のパラダイムシフトから見る高等教育機関の今後の方向性」
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/061/gijiroku/__icsFiles/afieldfile/2014/10/23/1352719_4.pdf